そんなある日。リンカーンが家族と共に住むホワイトハウスに、一人の小柄な女性が訪ねてきた。これこそ、あの『アンクル・トムス・ケビン(アンクル・トムの小屋)』を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ夫人だった。
「よくいらっしゃいました。ご本を読んで以来、お目にかかりたいと思っていたのですが、かないませんでした」。リンカーンは大きな手で、相手のほっそりした手を握った。そして、会いたいと思っていた人が、とても小柄で優しそうなのに驚いて言った。「あなたのようにほっそりした方が、この大きな戦争を起こすほどの小説をお書きになろうとは・・・」
すると、ストウ夫人は目を伏せて言った。「神様がこの手を取って書かせてくださいました。気の毒な奴隷を自由にしてあげるために。でも――」。その目から涙があふれてきた。「まさか、戦争が起きようとは思いませんでした」。リンカーンは一層力を込めて相手の手を握った。
ストウ夫人の愛する長男は頭に砲弾を受けて重傷を負い、死よりもつらい苦痛の中にあった。リンカーンもまた愛児を死なせて深い悲しみの中にあった。2人は互いの気持ちが誰よりも理解し合えたのである。それでも2人はなお、「奴隷制度廃止」という同じ目標目指してこの先も戦い続ける決意を新たにしたのだった。
「『奴隷解放令』が出されたことを知って心から感謝申し上げます。神様が、どうか大統領を祝福し、お守りくださいますように」。最後にこう言って、じっとリンカーンを見つめ、ストウ夫人は大統領官邸から去っていった。
ここはノーフォークの海岸。南軍最後のとりで「スウォール要塞」を砲撃するために北軍艦隊が進撃してきた。その一隻には大統領リンカーンが乗っていた。彼の姿を見た部隊はたちまち力を得、次々と敵の艦隊を砲撃した。
リンカーンの乗っている「リップ・ラブラス号」も砲撃を受け、ひるがえっていた星条旗もボロボロにちぎれて吹き飛ばされた。しかし、北軍兵士は力を抜かなかった。
やがて要塞の砲火は次第に弱まってきて、鎮火し始めた。このチャンスを逃さず、北軍は8隻の小舟に兵士を乗せ、大胆にも敵前上陸させたのである。要塞は陸と海から攻撃を受け、火薬庫が爆破されて胸壁は木っ端みじんになった。こうして「スウォール要塞」は陥落した。
リンカーンがワシントンに帰ると、人々は口々に「ばんざーい!」と叫んで大歓迎した。北部の人々はこの勝利によみがえったように力付いた。そして、元気を取り戻した北軍は南軍を少しずつ追い詰め、ついに最後の勝敗を得るための「ゲティスバーグの戦い」を迎えることになった。
その前日の夕方。リンカーンはワシントン郊外で、1万の将校を検閲した。彼らは全て生き残った勇士たちだった。旗は破れ、裂けて血と泥にまみれている。負傷者は汚れた包帯をし、制服はボロボロだった。靴下も破れて爪先が出、体には血と泥がこびりついて、髪もぼさぼさだった。
しかし、彼らがささげ持つ銃剣は夕日に輝き、燃えるように美しく荘厳だった。リンカーンは検閲を終えてから、言った。「明日は南北両軍の勝負を決する大切な戦いです。力を合わせて、正義と人道のため、人類の平和のため、健闘を頼みます」。兵士たちは、一斉にときの声を上げた。その翌日の「ゲティスバーグの戦い」は、実に北軍の圧倒的勝利に終わったのであった。
11月19日。ゲティスバーグの戦場には、戦没者のために墓が作られ、一同そろって祈りをささげた。リンカーンは、一段高い所に立ち、人々に語った。「この国を神の加護のもとに新しい自由の国として出発せしめ、人民の、人民による、人民のための政治を地上から滅ぼすことのないように努めるべきであります」。これこそ有名な「ゲティスバーグの演説」として長く歴史に残るものとなった。
リンカーン夫人のメアリは、親族が南部に多く、この戦いであまりにも死者の数が多いことに対して常々夫を非難していた。そこへもってきて、三男のウィリー(ウィリアム)が死んでからは、ほとんど夫と口をきかない状態だった。
そんなリンカーンを心から慰めてくれるのは、四男のトーマスだった。10歳になるこの子はリンカーンの苦悩をよく分かるかのように、こう言うのだった。「お父様は、かわいそうな奴隷のために戦っていらっしゃるんでしょう。だから、神様はお父様の味方だよ」
*
<あとがき>
リンカーンが語った「人民の、人民による、人民のための政治」というゲティスバーグの演説の中の言葉は、世界的に有名で、小学校の教科書の中で学んだという方もおられました。
リンカーンは、ゲティスバーグにおいて南軍と最後の決戦を交える大切な日の前日に、部下全員を前にして、この記念的な演説をしたのです。これに奮い立った北軍兵士は、人道の火を胸に一丸となって敵に当たり、ついに歴史的勝利を勝ち取ったのでした。
しかしながら、戦いを終えたリンカーンの前に残されたのは、あまりにも大きな犠牲でした。身内を戦場で亡くした者は多く、あの彼の支持者であるストウ夫人も、大切な息子が生涯癒えぬ傷を負い、共に苦しまねばならず、リンカーンの大切な友人、知人も皆命を失いました。
どんなに崇高な目的を持っていても、戦いには犠牲が伴うことを思わずにいられません。しかし、私たちは弱くても、万軍の主は常に私たちに勝利を与えてくださるのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。