私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネの手紙第一5章20節)
前回までのコラムにおいて、「キリスト(聖霊)は、私たち(信仰者)のうちにいる」ことを示してきましたが、今回は、「私たちはキリストのうちにいる」と書かれている聖書のことばを紹介します。
聖書は、キリストと私たちとの関係を、さまざまな表現で説明しています。もちろん、神様のことばである聖書を、完全に理解することは不可能ですが、私たちは、聖霊が共にいてくださる恵みの時代に生きていますから、一見矛盾するこれらのことばを、聖霊の導きに沿って、正しく受け止めたいと思います。
特に、共同体のうち(中)にいることを大切にする日本人にとって、「キリストのうちにいる」という聖書の表現は、比較的なじみやすく、各人の信仰を成長させるカギになるように思います。
一人一人は各器官
どんな人にも人生の浮き沈みがあります。神の臨在を体験し、人生が輝いていることもあれば、神様の臨在から漏れてしまったような危機を体験することもあり得ます。
そのような人生の中、「キリストのうちにいる」という聖書のことばは、私たちに、極めて安定した励ましを与えます。キリストのうちに存在し、決して離れない場が確保されているなら、私たちは、神様の臨在から漏れてしまうことはあり得ないからです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(コリント人への手紙第一12章27節)
しかも、私たち一人一人は、キリストのからだの一部(器官)だというのです。ただキリストのうちに存在しているだけでなく、しっかりと組み込まれ、大切にされ、役割を担っているというわけです。
日本人の「孤独」は深刻
かつて、日本人の中に「家」や「職場」などの共同体が確立されていたころ、日本人は、それらの共同体のうちにいることで、自らの存在意義を感じることができました。共同体の中にいれば、誰かが支えてくれました。
しかし、個人主義に基づく欧米文化が浸透し、絆の強い共同体が壊されていく現代社会では、自分自身の存在意義を見失うほどの「孤独」が進行してしまいました。欧米の「孤独」と比較し、日本人の「孤独」は、生きる場(共同体)を失うことを意味し、極めて深刻な課題になっています。
確かに、日本社会にも解決に向けたさまざまな提案があり、一定の効果があると思います。しかし、生きる場を失った人の「孤独」を解決するには、新たな絆の共同体を提供する必要があり、既存の共同体を維持することさえ難しい日本社会にとって簡単なことではありません。
地域教会も壊されていく共同体なのか
全国に存在する地域教会は、絆の強い共同体ですから、現代社会の「孤独」を癒やす新たな共同体として用いられてきたのなら、日本社会に大きな貢献を果たすことができたでしょう。
しかし残念なことに、多くの地域教会は、壊されていく既存の共同体の中に数えられている気さえします。地域教会は、自らの共同体としての機能を維持することで、精いっぱいなのかもしれません。
「善き隣人バンク」の働きを通し
そのような中、「善き隣人バンク」のスタッフの多くは、全国の地域教会の牧師や信徒たちから集められています。彼らは、私たちの働きを自ら探し出し、共感してスタッフに加わってくださいました。
彼らの多くは、牧会や福祉的な働きの経験から、「傾聴」の働きの価値を知る人材である上に、牧師や教会員として異なる地域教会に所属しています。
つまり、彼らが「善き隣人バンク」を通し、連携して一人の依頼者に寄り添うことで、図らずも教団、教派を超えた地域宣教が拡大する様子が確認できるようになりました。
孤独を抱える依頼者が「キリストのうちに」
孤独を抱える依頼者の中には、「善き隣人バンク」のスタッフとの絆を深めるだけでなく、スタッフを通し、地域教会につながり、孤独を癒やす新たな共同体を得ていく事例も増えてきました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ人への手紙1章23節)
このように、「孤独」を抱える多くの日本人が、絆の強い地域教会に迎えられ、やがて「キリストのうち」にあることを受け入れるなら、日本社会の「孤独」は神様の臨在によって払拭され、それを機に、日本に霊的覚醒が拡大していくことが期待できるように思います。
やがて、日本人にとって地域教会こそが、自らの存在意義を確認できる大切な共同体になり、日本社会に大きな貢献をするようになるのでしょう。
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