「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。(ヨハネ10:1~15)
イソップ物語の「狼少年」を考える
イソップ物語の狼(おおかみ)少年の話をご存じの人も多いと思います。「狼が出たぞ」と叫ぶと、村人が泡を食って飛び出してくる様子を見て楽しくなった羊飼いの少年が、何度もそれを繰り返した挙句、本当に狼に出くわして「狼が出たぞ」と叫んだときには誰にも信じてもらえず、狼に羊を食べられてしまったという寓話(ぐうわ)です(少年自身が狼に食べられてしまったとする寓話もあります)。
近年、さまざまな警鐘がさまざまなところから鳴らされています。地球環境の問題、国内外の政治課題など、さまざまな立場から、真剣な訴えが出ています。私が今関わっている保育事業にあっても同様のことです。
しかし、こうした警鐘に対する扱いはどちらかというと、押し並べて「狼少年だ」というものです。ご存じの通り、狼少年の話は「うそをつくことを戒める」目的で語られることが多いです。誤報を繰り返すことによって、信頼度の低下を引き起こし、人に信じてもらえなくなることを「狼少年効果」と呼んだりもします。
しかしながら、耳を傾けるべき警鐘を、うそをつく「狼少年」のように扱ったことで、対処を誤った事例も枚挙にいとまがありません。
例えば、福島第1原発事故。大規模な津波が押し寄せる可能性を、地質学者の一部が警告していたにもかかわらず、「不確実であいまいなことへの対応は難しい」と当時の副社長が答えています(NHK「詳報 東電刑事裁判『原発事故の真相は』第32回公判」2018年10月19日)。また、他の事故でも、同様の事例が多く報告されています。
要するに、危険が指摘されたときに「危機感をあおるな」と対応することが事故を招くのです。そして多くの場合、警鐘をそのように扱う人たちほど、「危機への対応は発生してからでよい」と考えている傾向があります。つまり、「狼が来る」というのはまだ先の話であり、対応は本当に狼が来てからでよいではないかと考えているわけです。
このように考えてみると、狼少年の話からは、実は少年の情報を受け止める側にも責任があることが分ります。もう少しこの寓話を深く調べてみましょう。ウィキペディアでは、以下のように紹介されています。
(狼少年の)イソップ寓話のギリシャ語の原典は失われている。後のラテン語の本では狼が食べたのは「羊」であり、ギリシャ語を含めて多くは狼が食べたのは「(羊の)群れ」もしくは「羊」となっている。タウンゼント版、チャーリス版、ヒューストン版などでも食べられたのは「羊」となっている。
日本ではこの話は古くは文禄2(1593)年刊の『ESOPO NO FABVLAS』(イソポノハブラス)に「わらんべ(童)の羊を飼うたこと」として収録されている。狼に食べられたのは「羊」となっている。明治5(1872)年に福沢諭吉が『The Moral Class-Book』を翻訳した『童蒙教草』の第26章に「信実を守る事(イ)羊飼ふ子供狼と呼びし事」としてこの寓話が掲載されている。それによればラストは「これがため夥多(かた)の羊はみすみす狼に取られければ」となっている。同年に渡部温によって訳された『通俗伊蘇普物語』第30には「牧童と狼の話」として紹介されていて、ラストは「数多の羊一疋(ぴき)も残らず皆狼に喰(く)れける」となっている。(ウィキペディア「嘘(うそ)をつく子供」より、一部改変)
つまり、うそをついた羊飼いの少年だけでなく、村の全ての人が「(財産である)羊を狼に食べられる」という同じ被害を受けたことが分かります。狼少年の話には、「うそをつくことを戒める」以上のもっと奥深い教訓もあるのです。
今そこにある危機にどう対処するか
今も昔も、想定しなければいけない危機は存在します。強く戒められるべきことは、その危機を未然に察知すること、そしてその危機の時のために備えをしておくことです。ですから、平時から訓練を行うのです。中には、実際に危機に直面したとき、訓練だと思わせることで子どもたちがパニックになることを防止し、見事に危機に対応した事例もあります。
狼少年の話を細かに解析すれば、うそをつくことを覚えてしまった少年に、その後も継続して羊の番を任せてしまった責任を、村人は問われることになります。つまり、「狼が来る」という、村の全財産を失うような事件がいつ起こるか分からない継続的な危機そのものに対しての警戒感が、「うそつき少年」に対する警戒感に置き換わってしまったのです。
さらに言えば、「羊の番など少年で十分」という安易な決定を覆さなかったことが問題です。大人たちは、少年のうそを「不愉快なこと」として消化するだけで、自分たちの羊を全て失うリスクに目が行っていなかったのです。
この結末はまた、傍観者効果という心理作用も示しています。もし誰かが、「羊の番は少年に任せないで自分たちでやろう」「しっかりとした給料を払って番人を雇おう」などと提案し、そのように対処していれば、狼に村の全ての羊を食べられるようなことは防げたのです。しかし、そのようなことは誰も言わず、実行もしませんでした。これが傍観者効果です。
保育の現場においても、他の事柄にばかり注意が行き、今そこにある危機を認識できていないということが起こり得ます。そして、傍観者効果により、そうした危機が認識されず、何の対処もされないまま放置されている場合もあるのです。(続く)
◇