コロナ禍、感染拡大、人流を減らす、三密、緊急事態宣言――。わずか2年前には、こんな言葉が私たちの周りで行き交うなど想像もしていなかった。しかし確実に「コロナ以前」と「コロナ後」では、私たちの生活、そして世界全体が変わってしまうだろう。
そんな漠然とした未来像を抱き、不安を感じてしまう今日この頃。「第○波」という言葉が定着し、さらにいつ終わるとも分からぬこの長く暗いトンネルを通らざるを得ない現在、私たちは自分たちの信仰をどう捉えているのだろうか。
本書は、そんな暗澹(あんたん)たる思いで書店に足を運んだときに出会った一冊である。10人の僧侶(以下、「お坊さん」と記す)の顔写真が表紙を飾り、真ん中には「不要不急」の文字。いつもなら、そしてコロナ禍でなければ素通りしてしまっていただろう。「仏教なんて、自分には関係ない。私たちには聖書があり、天地万物を創造された神様がおられるのだから」と一蹴してしまっていただろう。
だが正直に言うと、もうこんな状況はこりごり、うんざりだ、という気持ちを押さえながらの日々であった。そんな時、ふとひらめいた。「ところでお坊さんたちは、このコロナ禍でどう過ごしているのだろう」と。そして手に取ってみたのが本書である。
「仏教の本をキリスト教のネット新聞で宣伝するなんて!」というお叱りの声が聞こえてきそうである。しかし、ちょっと待ってもらいたい。コロナ禍にある多くの人々にとって、仏教もキリスト教もさほど違いはない。どれも同じ「宗教」である。もしもその宗教に真実な教えがあるなら、そこに確かな救い(あえて「ご利益」と言い換えてもいいかもしれない)があるはずだ、という前提に立って向き合うのは至極当然のことである。
例えば、ラーメン屋が軒を並べているとして、どちらに人が多く入るかといえば、単純に「おいしい」店であろう。「うちは創業100年です」とか「うちは最安値が売りです」と言ったところで、やはり味わってみて、「うまい!」と言わせる以上の「値打ち(救い≒ご利益)」はないだろう。
本書は、10人のお坊さんが「不要不急」という言葉を前に途方に暮れている現代人に対して、仏教(さらなる細かい宗派は問わない)の智慧(ちえ)を開陳するという作りになっている。各々の観点があり、それぞれの力点がある。そして一読して感じたことは、キリスト教界とまったく同じく、「人が集まれない」という異常事態に最初は右往左往してしまった、という告白である。細川晋輔氏はこう語っている。
坐禅会は、一人でも多くの方にご参加いただきたいと工夫や努力を重ねてまいりました。(中略)坐禅会の成長に、それなりの達成感を抱いていましたが、コロナ禍では逆に大きな課題となりました。言うまでもなく坐禅会が、「密閉、密集、密接」の「三密」状態となり、所謂(いわゆる)自粛の対象になってしまったのです。(37ページ)
これなど、「坐禅会」を「礼拝」に置き換えたら、まさに私たちの教会で議論されてきたことになる。つまり、皆等しく宗教活動を行えなくなってしまったということである。
そしてやはり、皆でオンラインへと移行していくのだった。細川氏だけでなく、寄稿した10人のお坊さんたちは、何らかの形で現行の活動を継続しようとし、「オンライン坐禅会」や「YouTubeでの仏教動画配信」のスキルを積み上げていったという。これなどもキリスト教界と同じである。
だが、本書が「キリスト教界の鏡」となるのは、その次の展開である。彼らは皆、この「不要不急」という事態を自らの宗派、そしていわゆる「仏の教え」を土台に考察し、オリジナリティーあふれる解決法をきちんと提示していくのであった。
例えば、南直哉氏は「不要不急」をこう解説する。
およそ人間はみな、「不要不急」の存在だからである。(中略)事実として、我々は「親」を選べず、理由や条件を知った上で生まれてきたわけではないし、生まれたら生まれたで、何故死ななければならないのか、皆目わからぬまま死んでいく。人生の両端の意味が不明なのに、中間に意味があるとは言い切れまい。ということは、諸行無常、我々はさしたる根拠も意味もなく生きているのだから、それこそ「不要不急」の存在である。(219~220ページ)
もちろん、私は牧師としてこの意見には異を唱えたい。それは聖書が語る人間観ではないからだ。しかし、現在流布しているさまざまなコロナ関連用語に対し、宗教家としてしっかりと向き合い、分かりやすく伝えようとする姿勢、そして苦しむ市井の人々に寄り添おうとする気概は、私たち牧師においても同じものがある(と信じたい)。
他の論客もよく勉強している。東西の哲学者の言葉を引用したり、芸能人や識者の発言をトレースし、それと仏教思想との共通点を指摘したりしている。驚いたのは、藤田一照氏が聖書の言葉を引用し、次のように述べている箇所である。
聖書の「マタイによる福音書」には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)という一節がありますが、そのような身も心も、そして魂も憩い休める場所が「本当のホーム」です。(中略)聖書には「放蕩(ほうとう)息子の帰還」という喩えがあるように、我が家を見失った者が長年彷徨(さまよ)った挙句に「本当の家、ホーム」を再び見つけ、そこへ帰り着き、安心して休息することは宗教的に重要な課題なのです。(76ページ)
このフレーズのみを切り取れば、これは牧師の説教になってしまう。しかし悔しいことに、藤田氏は巧みにこの話の結論を自らの仏教的な教えに落とし込んでいる。見事である。
本書をクリスチャントゥデイで紹介するのは、決して仏教を称揚しようとしているわけではない。誤解しないでいただきたい。私は本書を読み、大いに反省させられた。仏教界がここまで頑張って「世の中」に対して門戸を広げようと努力しているのに、私たちキリスト教界はどうだろうか。そんな忸怩(じくじ)たる思いに至ってしまう。もちろん日本という土壌もあって、彼らはマジョリティー、私たちは1パーセント未満のマイノリティーである。できることにはおのずと限界がある。本書も新潮新書から発刊されており、しかも書店では平積みになっていた。そんなことをキリスト教界ができるかと問われると、返す言葉もない。
だが、である。「知恵(智慧)」という視点から現代をひもとくというやり方なら、私たちにも2千年以上の蓄積があるではないか。それを丹念に調べ、現代との差異を見いだし、その間を埋める努力をすべきではないだろうか。いつまでも仏教界に押され気味でいいのだろうか。私たちにこそ、伝えるべき良き知らせ(福音)があると「コロナ以前」にはうたっていたのに!
本書は、信仰歴の長い人、そして教会のみならず社会において指導的な立場にあるクリスチャンに対し、大いに刺激を与えてくれる。「あなたはどうか?」と、避けられない問いを突き付けられることをいとわない人は、ぜひ手に取っていただきたい一冊である。私たちキリスト教界も、このような新書を発刊すべきではないだろうか。
■ 『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧』(新潮社、2021年7月)
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