ハンセン病患者とされた男性が隔離施設の特別法廷で裁かれ、死刑となった菊池事件について考える講演会が7月22日、オンラインで開催された。元患者でハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会事務局長の竪山勲さんが、同事件で得た教訓を語った。竪山さんは、「らい予防法による隔離被害は今も継続されている。被害当事者であるわれわれおよび家族の者たちも、いまだに偏見差別の渦中にある」と訴えた。
講演会は、キリスト教の精神に基づいて出所者の社会復帰を助けるNPO法人マザーハウス(五十嵐弘志理事長、東京都墨田区)が企画した。五十嵐理事長が6月、衆議院議員会館で竪山さんの講演を聞いたことがきっかけだった。五十嵐理事長は、「愛の反対は無関心。知ったからには自分で行動したいと思って企画しました。もっと若者たちがいろいろなことを知って、その中でおかしいと思ったら、どんどん言って行動してほしい」と話した。
菊池事件では、1952年に熊本県で発生した殺人事件をめぐって殺人罪に問われた男性が、隔離先の療養所などに設置された特別法廷で死刑判決を受け、無実を訴えながら62年に死刑を執行された。男性の逮捕には、今日まで続くハンセン病患者への偏見差別の原点とされる無らい県運動が大きく関わっていた。
竪山さんら元患者が原告となった国賠訴訟では、賠償請求を退けたものの、特別法廷の審理を違憲とした熊本地裁判決が昨年3月に確定した。竪山さんら原告は昨年7月、再審請求を求める書面を熊本地検に提出。しかし、検察は「事由を認められない」として再審での是正を拒んだ。
そのため、弁護団の呼び掛けに応じた全国の元患者や市民らが昨年11月、熊本地裁に対し、「国民的再審請求」として菊池事件の再審開始を請求。現在も署名活動が行われている。竪山さんは、「違憲と確定判決の出た特別法廷です。違憲な法廷で出された死刑判決であってもそれでいいのだとするこの司法の世界で、人権は、人としての尊厳は、どこにあるのでしょうか」と嘆いた。
今なお継続する偏見や差別
らい予防法は1996年に廃止されたが、全国13の国立療養所を中心に今もなお約千人の元患者が入所している。療養所で亡くなった人の多くが故郷の墓に入れず、療養所の納骨堂に遺骨が安置されている。ハンセン病に対する社会の偏見や差別は「いまだに根強く残っている」と竪山さんは話し、入所者の友人が詠んだという川柳を紹介した。
「もういいかい 骨になっても まあだだよ」
「らい予防法は確かに廃止されました。隔離条項もなくなっております。法廃止から、すでに25年目を迎えています。しかし生きてなお、故郷へ帰れない入所者がいる。死してなお、いまだ故郷へ帰れないご遺骨がある」。竪山さんは、らい予防法によってもたらされた被害の深刻さを強調した。
強制隔離政策の背景にあったもの
ハンセン病の感染力と発病力が極めて弱いことは、最初の法律を制定した1907年当時からすでに分かっていた。実際に、これまで療養所の職員からは一人の罹患者も出ていない。それではなぜ、国は90年にもわたって強制隔離政策を続けたのか。
竪山さんはその背景として、明治から大正にかけてはハンセン病を国辱病と考える国辱論、昭和の終戦までは軍国主義や国粋主義の台頭による民族浄化論、戦後は社会防衛の理念を過剰に優先させた社会防衛論があったと指摘。「まさしく医学、科学の目でハンセン病を捉えていなかった。感染の恐れのあるなしにかかわらず、すべての患者を根こそぎ隔離収容したという、なんと非医学的、非科学的な、野蛮極まりない政策。らい予防法という法律は、患者を収容して病気を治し、社会復帰を促すという病院そのものが本来掲げている使命感とは遠くかけ離れた、隔離絶滅政策以外の何ものでもなかった」と断じた。
ハンセン病療養所の実態
さらに、竪山さんは国立療養所栗生楽泉園(群馬県草津町)の敷地内にあった「重監房」について語った。正式名称は「特別病室」だが、病室とは名ばかりで、実際には患者を重罰に処すための監房として使用された。各療養所にも監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていたが、特別病室はそれよりも重い罰を与えたという意味で重監房といわれている。
栗生楽泉園は標高1100メートルの高台にあり、冬には零下20度にまで下がるが、重監房には暖房施設が一切なかったという。しかも、屋根は監禁室の部分にのみ設けられ、周囲は露天にさらされていた。冬は監禁室の中にまで雪が吹き込んできたという。
重監房は1938年から9年間使われ、全国の療養所で特に反抗的とされた延べ93人の入所者が入室と称して収監され、そのうち23人が亡くなったといわれている。極寒の時期に遺体を運び出した入所者の話では、遺体を霜柱が覆っており、床に凍りついた敷き布団を引き剥がして外に出したという。竪山さんは、「北海道の網走刑務所に送られた方々でも、暖房施設のある監禁室でした。草津の重監房に投獄された者たちは、裁判所で裁判を受けて送られたのではなく、療養所の所長に与えられていた懲戒検束権に基づいて所長の思い一つで送られました。これが、ハンセン病療養所の実態」と語った。
入所者が強制された断種・堕胎
最後に竪山さんは、療養所の入所者が強制された断種・堕胎の体験について語った。1998年のハンセン病国賠訴訟で第一次原告団の一人となった上野正子さんは現在94歳。所内での結婚は許されたが、それは逃亡を防止する点で有効との理由で許されたもので、男性は断種、女性はもし子どもができたら堕胎という条件付きだった。
結婚して移った夫婦部屋は12畳半で、4組の夫婦が雑居していた。仕切りもなく、布団を敷いたら歩く場所がないくらいだったという。当時、入所者は職員たちに「座敷豚」と呼ばれていた。「座敷豚に人権やプライバシーがあるわけないのです。何とも言いようがないですね」。竪山さんは言葉を詰まらせた。
同じく第一次原告団の一人で、2017年に98歳で亡くなった玉城シゲさんは、所内結婚してしばらくすると、妊娠していることが分かった。わが子を産みたい思いでだまっていたが、おなかが大きくなって隠しきれなくなった。外科に呼ばれ、ベッドの上に横にさせられた。堕胎手術は想像を絶する痛さで、途中から気を失ったという。「シゲさん」と呼ばれる声で目を覚ますと、膿盆(のうぼん)に入れられたわが子を見せられた。自分に似て鼻が高く、髪も黒々として、手足をばたばたさせていたという。そして、隣の部屋に持っていかれ、殺された。上野さんとシゲさんがいた国立療養所星塚敬愛園(鹿児島県鹿屋市)では、断種手術を医師ではない介護長がやっていたという。
竪山さんは、「星塚敬愛園でわが子を殺された多くの者たちは、今も殺されたわが子の歳を数えながら生きています。殺されたわが子に付けたかったであろう名前を小さなお人形に付けて毎日を過ごしている、80歳、90歳の年老いた母たちがいます。断種・堕胎が親の思いでなくて、国の政策で行われていたことを、私たちは決して忘れてはならないと思う」と話した。
竪山さんは最後にこう問い掛けて、講演を締めくくった。
「ハンセン病の療養所でお亡くなりになって、まだハンセン病療養所の納骨堂でおねむになっておられる物故者の方々と、らい予防法により故郷を奪われ、帰る家さえない約千人の全国の入所者たちが、今皆さんにこう問い掛けております。『もういいかい、もういいかい』。さて、皆さんはこの方々に何と答えられますか」
コロナ感染者への差別「ハンセン病問題と何ら変わりがない」
講演後、新型コロナウイルスの感染者に対する差別問題について聞かれた竪山さんは、感染症法改正の問題点を指摘した。竪山さんは、「入院というのは、個人の意思で行うものでなければならないはず。それを公権力で強制入院させようとすれば、ハンセン病問題と何ら変わりがない」と語った。また、「本来ならばまず、コロナに感染した人に頑張ってくださいとエールを送るはず。それが言われないで、医療従事者だけを先に応援しようというのは本末転倒」と指摘。「病人さんが第一ではないのです。病人さんを隔離してしまえ、そして社会の皆さんを守るのだとすれば、これは社会防衛論です。医学の世界に社会防衛論なんか適用してはいけない」と強く批判した。
マザーハウス理事の渡辺泰男神父は、「私たち一人一人がこのコロナ禍で本当に困っている患者さんのため、自分本位や大多数の側ではなくて、もし私が、という立場を想像して、いろいろな教訓や実践から学ぶことができたら」と話した。