昨年から今年前半にかけ、コロナ禍により米国の映画館は軒並み閉館に追い込まれた。しかし「そのおかげ」とでもいうべきだろうか。過去の貴重な音楽映像が復刻され、劇場でその臨場感を味わえるようになりつつある。その代表格が、5月に日本で公開された「アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン」だろう。ブロックバスター映画が滞り、製作もままならない中、忘れ去られてしまったかに思えた映像が不死鳥のごとくよみがえってくるこの流れは大いに歓迎したい。そうした中この夏、そんな「お宝映画」が再び日本にやってくる。
タイトルは「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」。「黒人たちのウッドストック」の異名を持つ1969年のコンサート「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」の模様を、あますところなく披露するドキュメンタリー音楽映画である。このコンサートは、何といっても出演者が豪華である。スティービー・ワンダー、B・B・キングといったブラックミュージックのスターが次々とステージを彩り、30万人を超える観客が集まったといわれている。その数はあのワシントン大行進の参加者に比するものである。
本作では、このコンサートが1969年の夏に行われたことの意義と、現代へ通じる黒人文化の継承がテーマとなっている。その背後に、確かに「キリスト教」が存在していたことをつぶさに見て取ることができるのも、また面白い。
「サマー・オブ・ソウル」が単なる「音楽映画」ではないことは、随所に盛り込まれた当時の記録映像からもうかがい知ることができる。特筆すべきは、黒人社会や彼らの文化を「誰が」語っているかである。コンサートに出演したアーティストはもちろんのこと、観客として集っていた市井の人々が語るのも分かる。しかし同時に、その中に公民権運動の活動家よりも、ブラックパワーを称揚するストークリー・カーマイケルやブラックパンサー党支持の活動家たちが含まれていることは特筆に値する。コンサート会場の警備に当たっていたのもブラックパンサー党の制服を着た若者たちであった。つまり、当時の白人社会から「過激な暴力集団」と目されていた彼らが、礼儀正しく、そしてかっこよく映像に残されているということは、すでに公民権運動の主流派が衰退し始めていることを示唆している。だから1969年なのだ。
マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのが前年の1968年。その痛みや悲しみ、そして怒りがこのコンサートの底流にはある。そのことは、映画の前半でマへリア・ジャクソンらが歌うゴスペルの調べを通してもうかがい知ることができる。彼女たちの映像は「歌の力」という表現にとどめることができないほどパワフルである。「魂のほとばしり」と表現してもいいほど、観る者を圧倒する。
キング牧師が暗殺される前、その死と引き換えるようにして、1964年には公民権法が、翌65年には投票時の人種差別を禁止する投票権法が成立したことで、黒人の権利や基本的人権は「とりあえず」遵守される道が開かれた。「とりあえず」と表現したのは、これらの法律が成立した後も人種差別は変わらず続いたからだ。そのため1960年代後半には、公民権運動に疲弊し、いつ果てるとも分からない混沌(こんとん)がさらに継続する中、前述したカーマイケルらは「ブラックパワー」を叫び出した。そしてキング牧師亡き後、それらが次の公民権運動たり得るか、という段階が1969年である。
また1969年は、ベトナム戦争が泥沼化する中、リチャード・ニクソン大統領(当時)が大統領として就任した年でもある。皮肉なことに、その後途中で大統領職を辞さなければならなくなるこのニクソン大統領によって、米兵の撤退がこの年から始まり、この戦争は終結へと導かれることとなる。黒人たちの訴え(キング牧師の反戦運動など)は、果たして政治を動かしたといえるのだろうか。それとも単に熱くなっただけだったのか。
つまり、このコンサート当時は、これらのことが今後どうなるのかまったく見えない中、今までの道を開いてきた主役(キング牧師)を失った黒人たちの、次なるアイデンティティー模索の旅の出立を告げるものでもあったともいえるのである。
考えてみれば、現在、姦(か)しく叫ばれている「ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動」も、「白すぎるオスカー」からの脱却も、すべて未解決のまま次世代へ持ち越された黒人たちの権利、社会的保証の問題を発露として拡大している。特に公民権運動の歴史的評価において、黒人たち自身の中で賛否が割れているという現状は、1969年当時の混沌と何ら変わりなき情勢を浮き彫りにしているといわざるを得ないだろう。そういった意味で、本作「サマー・オブ・ソウル」は、キリスト教界も含めて混沌とした最中を生きる(または生きてきた)彼ら黒人たちが、音楽によって一つになろうとする努力の足跡といえる。
映画のラスト部分で、コンサートのフィルムを映画会社がほとんど顧みず、そのままお蔵入りとなった経緯が語られている。確かにブラックパンサーが英雄視され、これほどまでに「黒人」色がポジティブに噴出する映像を、当時のWASPに代表される米国の主流派たちが好むはずがない。しかしだからこそ、今なのかもしれない。肥大化したWASPの、最後の断末魔が生み出したドナルド・トランプが政治の表舞台を去り、統合と癒やしを標榜する史上最高齢のジョー・バイデンが為政者となったこの時代。本作は現代米国を映す鏡のような役割を果たしているといえよう。
キング牧師や公民権運動というと、おそらく日本の小学生でも知っている。しかし、そのほとんどが「道徳的な視点」から語られ、もしかすると彼らの勇気ある言動によって人種問題は解決された、と解釈されてしまう危険性すら感じさせられる。今も苦しみの中にある黒人たちの声、叫び、そしてそんな彼らが語る1969年の出来事を、誰も見向きもしないという事態も起こり得る。だからこそ、本作が日本で公開される意味は大きい。私たちは本作を通し、「道徳の教科書」で語られていた「公民権運動のマジック」から脱却し、奴隷として米国大陸に連れてこられたところから始まる「黒人たちの歴史」という文脈で、この時代を見直すチャンスが与えられている。
そんな思いを抱きながら、一人でも多くの人に本作をご覧いただきたい。そう願う。北米ではすでに7月2日から公開が始まっており、日本では8月27日から公開される予定だ。
■ 映画「サマー・オブ・ソウル」予告編