前回、取り上げた「宗教2世」の問題。メディアはこれを、法律や心理学で解決できるのではないか、という流れで報じているように思う。しかし、それでは決して解決には至れない、とまさに「宗教2世」の当事者であった私は断言する。確かに物理的に悪影響を及ぼす存在(教団や信者の親)から引き離せるという意味では法律に力があることは認めよう。しかし、今までの世界観を一気に打ち壊されてしまうことで、「宗教2世」本人は大きなアイデンティティーの危機を実感することになる。また、心理学的にその心を扱うというのも、宗教の教理や考え方に親和性のないカウンセラーが一般的な心理学的知識だけで向き合うのでは、そこに真の解放は得られないだろう。
NHK関西ローカルの番組「かんさい熱視線」で、「宗教2世」であった大学教授がかつての自分と同じ境遇にある人々と交流しながら救済の手を差し伸べている、という事例を紹介していた。これは心理学的にいえば、非指示的カウンセリングの一種であり、これによって癒やしや慰めを得ることもあるだろう。しかし、その本質はカウンセリングではないはずだ。「蛇の道は蛇」というか、経験者でなければ分からない悲哀や絶望が存在するからこそ、そこに人が集まってくるということを見過ごしてはならないだろう。
そして、真に「宗教2世」の問題を解決するのは、法律でも心理学でもない。それははっきり言って「宗教家の仕事」だ。そして「親の仕事」だ。そうでなければ「宗教2世」は浮かばれない。何度もこのフレーズを使ってしまい恐縮だが、「宗教2世」出身として私はそう思う。
そもそも、どうして「宗教2世」がこれほど取り上げられるのか。それは、宗教が持つ独特の世界観と社会との間に齟齬(そご、「段差」「亀裂」と表現してもいい)が生まれ、それを隠そうとしても隠しきれないことが明らかになってきたからである。うまく社会との整合性を保てるとしたら、わざわざ「○○2世」という言われ方もしないだろうし、たとえそう言われたとしてもそれは良い意味で用いられるだろう(例えば、プロ野球などで「イチロー2世」などと言われることは、そう評される人にとっての名誉だろう)。
考えてみれば、テレビ番組や小説、自伝などで取り上げられている「宗教」とは、決して今まで誰の目にも触れてこなかった存在ではない。直接的な表現は少ないが、明らかにそこで扱われているのは「エホバの証人」か「統一協会」である。大雑把な言い方になるが、「キリスト教系新興宗教」である。キリスト教界でこれらは「異端」と呼ばれている。しかしそういう違いは、キリスト教人口1パーセントといわれる日本において、多くの人にとってはささいなこととしか映らない。その間で苦しむ「宗教2世」の悩みなど、本当に理解することはできないだろう。だから、解決は法律や心理学によるのではない、と訴えているのだ。
そんなことより、多くの人々にとってもっと気になる「現象」がこれら新興宗教にはあるのだ。例えばそれは、運動会の騎馬戦に参加しないとか、輸血をしないとか、誕生日を祝わないとか、結婚相手を勝手に決められて合同で挙式するとか、もうすぐ世が滅びる(日付も指定する)と公言するとか、そういった類のことである。これらは明らかに一般社会との間に軋轢(あつれき)を生む。そういった齟齬をもはや「見て見ぬふりできない」ということで、重い口を開いた人々が「宗教2世」の走りである。そして、その自らの体験を通して語られるリアリティーあふれる証言は、人々の心を打ち、社会問題として取り上げてもらえるまでになったのだろう。
しかし、「宗教2世」の心の中にある社会との齟齬、違和感を真に埋められるのは、その宗教を幼き心にたたき込んだ宗教家であり、信者の親である。彼らがこのような番組を見て、虚を突かれた思いになるとき、真に「宗教2世」は救われるだろう。しかし、これは番組でも指摘されていたように、なかなかそうはいかない。宗教家も信者の親も、そう簡単に自らの非を認めようとはしない。これが現実であろう。
それならば、である。あとは自分で強くなる以外にない。私はこうやって「宗教2世」という重荷を自分から引きはがすことができた。私の場合、教会に行くと一番疲れたし、その密な人間関係が最も神経を使う関わりだった。だがある時、「そもそも、どうしてそんな宗教(教え)が生まれたんだろう?」という疑問を持ったことから、キリスト教という本質に迫ることができた。自分が所属していた教派がどんなもので、どのような歴史的背景から生まれ現在に至っているかをアカデミックに探究したのである。そしてそれを究めたとき、いつしか自分を縛り付けていた牧師や親を超えて、彼らがどうしてあそこまで厳しく私に接し、社会との軋轢を生むことを分かりつつも、教会であのような教えをしなければならないのかを客観的に理解することができたのである。
すると不思議な現象が私の内に起こってきた。それは、今まであれほどイヤでたまらなかった人々(牧師や親)がとても「かわいい存在」に思えたということである。これは、NHKの番組「逆転人生」で、『解毒』の著者である坂根真実氏が、「親がどうしてこの宗教に頼らざるを得なかったのかが分かったような気がする」と発言していたことと本質的に同じである。つまり、親を乗り越えたということだ。強くなった、ということである。おそらくこれしかないだろう。
「宗教2世」という言葉が独り歩きし、法律や心理学の扱う問題としてサンプリングされてしまう前に、私たちはこの問題の本質に向き合わなければならない。それは宗教家が、そして信者の親が、真摯(しんし)に「宗教2世」と向き合うことである。そしてもし、それができないなら、「宗教2世」は、己の細胞の中にしみ込んでいるその宗教の教えと向き合い、それを客観視できるほどまでに強くなるべきである。泣き言を言い、「自分はこんなに理不尽な目に遭ってきました」と言うのではない。各々がたどり着く先に真の解放があるなら、それはその教えを客観視できる頂まで自ら上り詰め、強くなることである。
幸い、宗教学や宗教史学を学べる専門機関は大学に備わっている。「宗教2世」を自認する人がおられるなら、ぜひこういった機関で自己客観化のきっかけをつかんでもらいたい。このように自ら「強くなる」以外にこの不条理から抜け出る道はない。そう「宗教2世」出身の牧師は思う。読者諸氏はいかがお感じになっただろうか。
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