神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)
これはインターネットの書き込みに書かれていたことなのですが、都会の人に密かなブームがあるというのです。羽田で飛行機に乗り、鹿児島空港に着いたら、レンタカーを借りてナビに「蒲生町漆」と打ち込むんだそうです。ナビの指示通り走行していくと、まるでタイムスリップして昔に戻ったような空間に入り込むというのです。
私も漆に行ってみましたが、鹿児島生まれの人間にはあまり特別の感慨はありませんでした。確かに人家は少なく、きれいな小川が流れていて、時代から取り残されたような地域です。都会の雑踏の中で生活している人にとっては新鮮な場所かもしれません。
鹿屋市の吾平山陵に行きますと、そこを流れている川の水のきれいなことに驚かされます。2千年以上の間、神聖な場所として保護された空間は人の手で汚されていないので、清々しいスペースになっています。
地元のラジオ局で働いている知人から連絡があり、私の記念日に思い出の曲を流してあげるけど何かあるかと聞かれたことが、かつてありました。私は友人のチェロ奏者が演奏しているサン・サーンスの「白鳥の湖」をリクエストしました。放送当日、鹿児島の藺牟田池の畔でラジオを聞いている人がいたそうです。ちょうどサン・サーンスの曲が流れるとき、湖畔に2羽の白鳥が飛来し、優雅に泳いでいて感動したという話が放送局に寄せられたそうです。
私はこの話を聞いてから、一度藺牟田池に足を運びたいと思っていたのですが、なかなか実現できませんでした。先日、思い切って出掛けることにし、ドライブしました。かなりの山道を走りましたが、看板も電柱もない山道を走行していますとまるでタイムスリップしたように感じましたが、山間にきれいな湖が見えてきたときは感動しました。白鳥だけでなく水鳥の群れもいて心が和みました。神様の造られた自然は私たちの心を癒やしてくれます。
私たちの悩みは、ほとんどが人間関係によるものではないかと思います。心無い人の中傷によって傷つき、意地悪な対応によって生きる気力さえ奪われることもあります。心の癒やしには手つかずの自然がいいのかもしれません。
ある時、カトリック教会の神父さんにお目にかかったとき、とても疲れておられるようにお見受けしましたので、その理由を尋ねました。そうすると「信徒さんの悩みもいろいろと聞かないといけないものですから」と言葉少なく答えられたのがとても気がかりでした。大きい教会でしたら、相談者の数も多いから大変だろうと思います。しばらくしたら、その神父さんが入院されたというのを耳にしまして、心が痛みました。これはプロテスタント教会でも同じような実状だろうと思います。
牧師や神父は教会から謝礼を頂いて生活しているのだから、信徒の悩み相談をして仕えるのが当然だというように暴言を吐いておられる方がいて、違和感を覚えたことがあります。聖職者は神に仕えていて、福音宣教の使命という教会の外に目を向ける役割が与えられていると思います。
「クリスチャンはキリストと出会い、聖書も与えられているのだから、聖書の中に回答を見いだすことができるはず、いつまでもうじうじして自分の悩みに振り回されているのはおかしい」と言った人がいますが、これは正論と言っても過言ではないと思います。
聖書は人生の取り扱い説明書だと言った人もいます。私は電気製品や携帯電話を購入したとき、あまり取扱説明書を読まず、すぐ故障だと思って電気屋さんに駆け込むと、大したことはないという経験が多々あります。よく説明書を読んでみると、自分の勘違いによる操作ミスということもありますし、自分の知らない便利な機能があるということも知って驚くことがあります。聖書を読み、そこに書かれていることを素直に信じ、受け入れていくときに素晴らしい体験をすることができます。
2021年は試練の年といわれています。感染症の拡大による緊急事態のために、失業し、路頭に迷う人や自殺に追い込まれる人も少なくありません。また、気候変動による不作のために食料不足も心配されています。国際的な紛争も絶えず、第二次世界大戦の前夜に似ていると言う人もいます。まさしく主イエスがマタイ福音書で預言しておられるような事態ではないかと思います。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(マタイ24:7、8)
人為的な働きに振り回されることなく、神のなさる美しい業に目を注ぐときに、前に進む力が与えられるのではないかと思います。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。(ピリピ2:13、14)
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