米南部テネシー州ナッシュビルにある進歩主義の教会が、ソーシャルメディアに「聖書は神の言葉ではない」とし、聖書の無誤性や無謬性を否定する投稿をしたことで炎上状態となった。
問題の投稿をしたのは、グレースポイント教会。今月7日、フェイスブックに、その日の礼拝で伝えた説教要旨の画像(英語)を投稿し、ユーチューブには「キリスト教進歩主義とはいかなるものか?」(英語)と題した動画を公開した。
批判的なコメントが多数寄せられ炎上状態になったフェイスブックの投稿では、「私たち進歩主義のクリスチャンは、聖書(の内容)に不調和や矛盾があることを受け入れています。私たちは、聖書が現代の基準にそぐわないことを承知しています。私たちは聖書が何であるか、また何でないかを明確にするよう努めています」とした上で、同教会の聖書に関する具体的な見解を列挙している。
「聖書は神の言葉ではなく、聖書(のある箇所)を聖書(の別の箇所)で解釈できるわけでもありません。科学の本ではなく、あらゆる問題の回答集でもなく、生活の規範でもなく、無誤でも無謬(むびゅう)でもありません」
「聖書は共同体の産物であり、文書の集合体であり、複数の人々の声であり、人間の神への応答であり、生きて活力に満ちたものです」
この投稿には23日時点で、3千件を超えるコメントと共に2千を超える絵文字による反応が寄せられた。2千以上の絵文字による反応のうち、半数近い約960件が怒りを示す「ひどいね」で、嘲笑(ちょうしょう)的なニュアンスも伝える「うけるね」は約430件、「悲しいね」は約300件寄せられた。その一方で、肯定的な評価を示す「いいね!」や、ハートマークの「超いいね!」は合わせても300をわずかに超える程度だった。
クリスチャンポストとのインタビューで、これらの反応について尋ねられた同教会のジョシュ・スコット主任牧師は、今回の投稿は必要なものだったとの考えを示した。
「お分かりだと思いますが、私の真の狙いはキリスト教界で意見をやりとりすることでした。ですから、そうですね、良いやりとりができたと思いますし、あのような広いキリスト教文化の中で行われる必要のある討論だったと思います」
「聖書を偶像のように扱う傾向が、私たちにはあると思います。そうすることで、本当の呼び掛けが見えなくなっていると思います。それは私たちがただ何かを読むことではなく、常に聖書を読み、聖書と格闘し、この世における人生で聖書全体を具現化することです」
「キリスト教の伝統の中に立ち入ることの許されない議論があるとすれば、それは恐らく、私たちがその議論を恐れているのだと思います。私たちは異端者と呼ばれることを恐れているので、異端者と関わることも恐れているのです。私たちは人から嫌なことを言われるのを恐れています。しかし実のところ、それは意義深い議論なのです。ですから、それは話し合う必要があるものだと思います」
聖書は現代の基準にそぐわないとする見解を説明する中で、スコット牧師は「問題は聖書にある」のではなく、「問題は私たちにあるのです。聖書に何らかの欠陥があると言っているのではありません」と語った。
「聖書にまつわる最大の問題の一つとして、私たちが聖書に期待し過ぎるというものがあります。聖書は私たちの期待に応えるために書かれたわけではないので、期待に応えることができないのです。聖書を開いて宇宙がどのように機能するかという最新情報を入手しようとしても、その情報を手に入れることはできません。なぜなら聖書は、物事がどのように変化するかを教える本ではないからです。聖書はその理由を私たちに教えようとしていると思います。聖書は必ずしも物事の成り立ちに関する情報を提供していませんし、聖書は私たちの存在理由や世界の存在理由を教えていません。人間であることがこの世でどのような意味を持つのかも教えていませんし、どうすれば最善の生き方ができるかも教えていません。そういった問題は、聖書が取り扱おうとしている範囲を超えていると思います」
同教会は投稿に対する反応に「ひどく衝撃を受けた」としているが、スコット牧師は聖書を新鮮な光で見てほしいと視聴者に話している。
「実際私は、皆さんに聖書の物語を聞いてほしいと願っていますし、(聖書の)物語や書簡や詩歌を新鮮な方法で聞いてほしいと思っています。ただし、その背景や著者たちを尊重する方法でそうしていただきたいのです」
スコット牧師は、聖書の一部は「神の言葉」と見なすことが可能だが、聖書全体がそうだとはいえないと言う。
「そこ(聖書中)には、実際は神の性質に反すると思われる描写があります。聖書には複数の大量虐殺があり、神が制裁を科したものだとされています。人々は聖書本文を利用しているのです。時にはその箇所を文通りに解釈して白人至上主義を支持したり、奴隷制を擁護したり、人種差別を擁護したりしてきました。聖書は無謬かつ無誤だと言って、私たちの先祖がしたことの責任逃れをしていますが、それは無理のある話です」