聖書で「教会」と訳された言葉の原語は、ギリシャ語で「ἐκκλησία」(エクレシア)です。新約聖書に87回使われています。「エク」と「カレオー」という2つの言葉からなり、「エク」は「~から」という意味があり、「カレオー」は「招く、大声で呼ぶ」という意味があり、「呼び出された者たちの集まり、会合、会衆」などの意味があります。
一般に「教会」と聞いてイメージするのは、看板のついた「教会堂」のことだろうと思います。でも、「教会」とは「教会堂」ではなく、「神に召された人の集まり」のことを指します。教会は「建物」ではなく「人々」ということになりますと、十人十色の違う人たちがそこに集まっています。
2つの大切なことがあります。
① 「多様性」
② 「一体性」
の2つです。この2つの矛盾が1つになった実例が身近にあります。私たちの体です。体ってすごいですね。数え切れない多様な器官から成り立っていますが、頭の指令によって、ちゃーんと統合されています。
聖書は、さらに「教会」のことを、「キリストの体」であると教えます。
「教会はキリストのからだであり・・・」(エペソ1章23節)
体の一つ一つの器官は私たち一人一人のことで、頭の部分はイエス・キリストです。体のそれぞれの個性が殺されることなく生かされ、かつ調和して1つになるのが教会の本当の姿です。
教会にはさまざまな教団・教派や宗派があります。カトリック教会、オーソドックス教会、プロテスタント教会。私はプロテスタント教会に所属しますが、この中に、社会派、福音派、聖霊派があります。人間に多様性があるように、いろいろな流れの教会があることはとても素晴らしいことです。
しかし、これだけでは不十分です。その宗派・教派・教団・グループなどが、頭であるイエス・キリストによって1人の人のように統一されることが必要です。そうでなかったら、1つの体の中に複数の指揮系統があることになり、体は分裂し、争うことになり、大変です。
教会は、たくさんの個性がイエス・キリストによって調和され、1つにされる場所です。
そのためには、
① キリストの体の器官である一人一人が、頭であるキリストにしっかりと結ばれることです。そうしたら、お互いに空気を読み合ったり、合わせようとしなくても、結果として一致されるものです。
② しかし、同時に大切なことは、互いの違いを尊重し、尊敬して受け入れ合い、互いに学び合う心を持つことです。キリストが私たちを十字架で赦(ゆる)し、愛してくださったように、赦し合い、受け入れ合い、愛し合えるように祈ることです。
教会に集まってくる人たちは、きよめられた善人や義人ではありません。赦された罪人にすぎません。だから、実際に調和し、1つになることは簡単ではありませんし、いろいろな問題が起こります。
その時、まるで独裁国家が恐怖政治によって人々を脅かし、力によって統率するようにではなく、愛によって成長し、自らの意思で1つになることを選び取っていくのです。
あなたも、キリストの体である教会にいらっしゃいませんか?
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