主イエスは十二弟子を使徒として遣わす際に「二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあります(マルコ六章7)。ルカ一〇章1にも「二人ずつ先に遣わされた」と同じように書いてあります。これは「二人ないしは三人の証言を必要とする」(申命記一七章6)などの習わしによったのかも知れません。
でも主の知恵によるものでしょう。一人だと独善的になったり、不安や恐れの中で倒れてしまうかも知れません。三人だと三人旅の一人乞食で仲間割れが生じかねないということで二人四脚ではなく、二人二脚で行かせたとも考えられます。それよりも何よりも二人ずつ組になることにより、共に刺激され共に成長していくことを見越しておられたのでしょう。伝道のため共に祈り共に労することにより戦友的強固な交わりを与えられることにしましょう。
福音の理解には客観性というものは無視できません。思い込みや独りよがりというものが入り込んで福音をゆがめていくことになりかねないからです。
福音理解がそうであるなら、福音伝道も同じでしょう。客観性を生かしながら補助、補強、補足しあいながら二人ずつ遣わされて一つ思いでご用にあたらせていただくのです。
人は誰かの顔をとおしてイエス・キリストに出会うと言われています。福音は人間関係の中で、人間のつくる社会や環境の中で、人間をとおして理解せられる人間臭さという側面を持つものです。このことも二人ずつ組になって遣わされる中で学ばせられるでしょう。
「あまりうちとけ過ぎる人間は尊敬を失いますし、気やすい人間は馬鹿にされますし、むやみに熱意を見せる人間はいい食いものにされます」(バルザック『谷間のゆり』)。
うちとけ過ぎる人、気やすい人、情熱的な人がバランスを取りながらそのまま用いられていくのも二人組の中での不思議です。
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山北宣久(やまきた・のぶひさ)
1941年4月1日東京生まれ。立教大学、東京神学大学大学院を卒業。1975年以降聖ヶ丘教会牧師をつとめる。現在日本基督教団総会議長。著書に『福音のタネ 笑いのネタ』、『おもしろキリスト教Q&A 77』、『愛の祭典』、『きょうは何の日?』、『福音と笑い これぞ福笑い』など。
このコラムで紹介する『それゆけ伝道』(教文館、02年)は、同氏が宣教論と伝道実践の間にある溝を埋めたいとの思いで発表した著書。「元気がない」と言われているキリスト教会の活性化を期して、「元気の出る」100のエッセイを書き上げた。