ヨハネの黙示録によれば、復活して昇天した主イエス・キリストは、パトモス島で弟子のヨハネに現れ、小アジアの7つの教会に宛てた手紙を彼に託した。これらの手紙の内容は黙示録の第2章と第3章に書かれている。
これらの手紙では、もしその教会が行っていることが良い場合には、主はそのことをまず伝え、その後で間違った行いを指摘している。
われわれの人間関係においても、これは悪い戦略ではなさそうだ。例えば、配偶者が行った良い行いをまずは褒めてから、喧嘩に臨む方がよくはないだろうか。子どもや、両親、兄弟、その他親戚と問題を話し合う際にも、これは優れた戦略ではないか。
キリスト者が皆、主のこの戦略を教会内の兄弟姉妹との議論や論争に適用したら、教会の変革が起こるのではないか。
もし、われわれにそれができれば、2世紀のキリスト教徒たちについて世の人々が語っていると、神学者テルトゥリアヌス(160〜220)の報告にあるように、「キリスト教徒たちは何とお互いに愛し合っていることだろうか」と皆言い始めるのではないか。
そうなれば、「彼らはしょっちゅう互いに喧嘩している」と言われるような、今のキリスト教徒への評判と雲泥の差ではないか。
だから、クリスチャンとして、われわれは常に心しておくべきだ。まずは何かポジティブなことや褒め言葉を言ってから、意見の相違を話し合うべきだと。
ヨハネの黙示録に書かれた手紙の内最初のものは、エフェソの教会に宛てられたものだが、主はまず彼らが正しく行っていることを褒めている。すなわち、1)福音のため一生懸命働いたこと、2)迫害に直面しても揺るがなかったこと、そして、3)教義的に正当であることだ。その後で、主は非難を示す。彼らが「初めのころの愛から離れてしまった」と。
主は彼らに「どこから落ちたかを思い出し、悔い改め」るようにと警告する。さもなければ、彼らの光を取りのけると。
主がまずは彼らの働きと信仰を褒めていることに注目したい。一方、働きもただ義務として行うだけになれば苦となりえる。教義的な正当性も、愛がなければ、単に冷たく、暗いものになってしまう。
クリスチャンとして、われわれは正しいことを行い、話し、考える必要があるが、それはそのことを行い、話し、考えることが正しいからというだけではない。
われわれが正しいことを行い、話し、考える必要があるのは、何よりもまずわれわれがイエスを愛し、その言葉に従うことで主に喜んでもらいたいからだ。
正しいことを行い、話し、考えるべきなのは、自分たちが幸せになるからではなくて――もちろん最終的にはそうなるが――イエスがわれわれの献身を喜んでくださるからだ。
主に従う者として、主の警告を守り、まず第一に主への愛を守ろう。なぜなら主がまずわれわれを愛し、われわれのために死なれ、だからこそ今われわれは主への愛のために、主に仕え、主をたたえ、主に喜んでもらおうと思うのだから。
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リチャード・D・ランド(Richard D. Land)
1946年生まれ。米プロテスタント最大教派の南部バプテスト連盟(Southern Baptist Convention)の倫理および宗教の自由委員会(Ethics & Religious Liberty Commission)委員長を1988年から2013年まで務める。米連邦政府の諮問機関である米国際宗教自由委員会(USCIRF=United States Commission on International Religious Freedom)の委員に2001年、当時のジョージ・W・ブッシュ米大統領から任命され、以後約10年にわたって同委員を務めた。2007年には、客員教授を務めている南部バプテスト神学校がリチャード・ランド文化参加センター(Richard Land Center for Cultural Engagement)を設立。この他、全米放送のラジオ番組「Richard Land Live!」のホストとして2002年から2012年まで出演した。現在、米南部福音主義神学校(Southern Evangelical Seminary)校長、米クリスチャンポスト紙編集長。