[1]序
ダニエル5章、今回は後半17節から31節の箇所を味わいます。
前回確認しましたように、このダニエル書5章を通し、私たちひとりひとりが自分自身の死について備えをなす必要を自覚したいのです。詩篇90篇10節から12節、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」が勧めているように、唯一の生ける神様を恐れ、生き死ぬ、真の知恵を与えられたいのです。
[2]「ダニエルは王の前に」(17節)
(1)ペルシャツァル王は、富や地位の報酬で解決を目指す
①7節。ペルシャツァル王は、「顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震え」(6節)るような事態に直面しながら、自分にとって富や地位がすべてであるように、呪文師、カルデヤ人、星占いなどバビロンの知者たちにとっても同様であると考えて富や地位を提供し問題の解決を目指しています。
「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう」
②最初のもくろみは成功せず、「ペルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれ」(9節)ます。
そうした中で、10節から12節に見る王母の勧めで、ペルシャツァルはダニエルを呼び出し、13節以下で描いているように話しかけるのです。
ペルシャツァルのダニエルに対する態度は高慢そのものです。
「あなたは、私の父である王がユダから連れて来たユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか」(13節)
そして16節が示す通り、ペルシャツァルはダニエルに対しても全く同じ報酬を提供して、目的を果たそうとするのです。富や権力ですべてが解決するとでも考えているかのように。
(2)ダニエルのきっぱりした拒絶(17節)
「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください」(17節)
すべて、そうです、神々との関係さえ、金で解決できるとペルシャツァルは考えるのです。しかもこれはペルシャツァルだけの問題ではありません。偶像礼拝の根底にあるものの一つは、偶像へのささげもの、特に偶像に仕える祭司たちへの贈り物の高によって、自分たちの願い・欲望を聞き入れられるかどうか左右されるとの考えです。ダニエルは、この偶像礼拝の原理を真の神礼拝に持ち込もうとするペルシャツァルの心の動きに対して、はっきりした戦いをなしているのです。
この戦いは、旧約聖書、新約聖書いづれにも見ます。
①Ⅱ列王記5章1節以下に見るエリシャとナアマンの記事。
「『……それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。』神の人は言った。『私が仕えている主は生きておられる。私は決して受け取りません。』それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った」(15、16節)
「今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶとう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか」(26節)
②霊的賜物を金銭で左右できるとの考えと使徒たちは戦いました。使徒の働き8章14節から24節。
「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです』」(18~20節)
③ペテロの同僚の長老たちに対する勧め。神の羊の群れを牧する動機。Ⅰペテロ5章1節から4節。
「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい」(2節)
富や権力などで左右できないもの――まさに自らの「死」がそうである――があることをダニエルはベルシャツァルに、鋭い拒絶をもって指し示す。
[3]「その子であるベルシャツァル」(18~30節)
(1)「父上ネブカデネザルに」(18~21節)
①「いと高き神」が、ネブカデネザルに国と偉大さと栄光と権威とをお与えになったのです(18節)。
②ネブカデネザルは、世界帝国の統治者としての自分の立場を、自分の力で手にしたと高ぶりの高慢の頂点に達します(20節、4章30節)。
③神のさばき(20節後半、21節前半)。
④神のさばきを通して、ネブカデネザルは、「ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようにな」(21節)ります。
(2)「その子であるベルシャツァル」(22~30節)
①ネブカデネザルの身に起こったことを知りながら、ベルシャツァルは当然期待されるように、「心を低く」(22節)することをしないで、反対に「天の主に向かって高ぶ」(23節)るのです。
②そしてネブカデネザルでさえしなかったことですが、主の宮の器で酒を飲み、特別な用のためにのみ用い聖別すべきものを汚したのです。けじめを全く無視。
③「見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美」(23節)、偶像礼拝をなすのです。
④「あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえ」(23節)、礼拝することをしないのです。
以上のような生き方をベルシャツァルがしているので、「それで」(24節)当然、5節に描かれているように、「神の前から手の先が送られて」(24節)、神のさばきの文字が書かれたのです。ベルシャツァルにとって突然に思えても、彼のような生き方をしているなら、「当然」神のさばきに直面せざるを得ないのです。
29節から31節に見るベルシャツァルの死も、突然でなく、彼のような生き方をしていれば当然予想されるものです。
「私はこのチームのまとめ役として、またチームの一員として、多くの死にゆく人びとと接してきた。そして多くのことなった死にざまを経験して、結局、良き死を死すことは良き生を生きることなのだということを学んだ。人は生きてきたようにしか死ねないのだということを患者さんは私に教えてくれた。そして、元気なうちに死への備えをしておくことの大切さを教えられた」(柏木哲夫、『生と死を支える』)
[4]結び
(1)詩篇90篇12節、「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」。死の事実と神の審判の前に立つ事実を率直に認め、その事実に基づいて生き、死に備える。これが知恵の心。
ダニエルが、25節から28節でベルシャツァルに解き明かしている内容は、聖書全体を貫いて明らかにされている事実です。
ヘブル人への手紙9章27、28節、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目には、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」。
ローマ人への手紙、その2章6節では、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」と、使徒パウロは宣言しています。
さらに、「神を恐れることは知識の初めである」(箴言1章7節)との土台に立つ箴言、その24章12節、「もしあなたが、『私たちはそのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか」。
(2)自分の日を正しく数え、知恵の心を与えられるために意を注ぐべき事柄として、時と金とことばがあります。
①時
時を無駄にしない。「主にある一日、一週、一生」
②金
すべて神から受けている恵みを、献金を通してはっきり告白するのです。神から受けているすべて(献金した残りのもの)を、神の管理者として神の国と義を第一に活用できるよう、献金をもって祈り願うのです。献身の思いをこめて、献金するのです。献金の仕方のように、私たちは献身の歩みをする、献身の程度以上の献金をなすことはできないのです。献金について考え実践することは、献身の生活について考え実践することに外ならないのではないでしょうか。天に宝を積む生涯(マタイ6章19~21節)を送りたい。
③ことば
神を信頼するとは、結局神のことばを信頼することです。ことばによって支え生かされる者として、私たちのことばを信頼されるようになりたい。
「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』」(マタイ5章37節)と掛け値なしに受け入れられるように。
(3)私たちの生活と生涯にとって、最も確かなことに対して、備えて行く歩み。
①再臨に対しての備え。Ⅰテサロニケ5章3、4節。
②死に対して。「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」とのペテロの勧めに従おうとするなら、牧会者にとって、ヘブル13章7節、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思いだしなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」は、重い響きをもって迫ります。
死は「突然」でも、「まさか」でもない。
メメント・モリ(死をおぼえよ)
メメント・ドミニ(主をおぼえよ)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。