わたしの母、わたしの兄弟たちとは―神のことばを聞いて行う人たち―
ルカの福音書8章19~21節
[1]序
ルカの福音書を読み進めながら、私たちが繰り返し確認してきたことの一つは、前後関係・文脈に注意することです。今回味わう8章19~21節についてもそのことは、やはり強調する必要があります。
しかしもう一つのことを、今回は特別に取り上げたいのです。それは、他の福音書との比較です。この箇所で記されていることを他の福音書ではどのように描いているか(マタイ12章46~50節、マルコ3章31~35節)を比べて見るのです。
それぞれの福音書の記事の特徴を確かめたり、他の福音書の記事を参照にしながら、一つの福音書だけを見ているときよりさらに豊かに内容を味わう道が開かれます。
[2]「近寄れなかった」(19節)
(1)主イエスと主イエスの母と兄弟たちの間に距離が生じていることを暗示しています。マルコの福音書3章20節以下には、この点をよりはっきり描いています。
(2)マルコの福音書では、家族の大切なこと、またいずれの家族も自らの力を遥かに越えた力の圧迫の下に苦しみ、本来の姿からずれた状態にある現実を描いています(1章29~31節、3章13~19節、5章1~20節、5章21~43節、6章14~29節、7章1~23節、7章24~30節、9章14~29節、10章1~12節、10章28~31節など参照)。
いずれの家族も解き放たれ、支えられ本来あるべき姿に立ち返る必要があるのです。しかも肉の家族関係だけでなく、さらに豊かな家族、主イエスにあって現実となっている神の家族の存在を指し示しています。
[3]「神のことばを聞いて行う人たち」(21節)
(1)「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも」(マタイ12章50節)、「神のみこころを行う人はだれでも」(マルコ3章35節)。
(2)神のみこころは、神のことばを通して明らかにされていることを教えられます。私たちが聖書を読むのは、神のみこころを知り、従い、それを伝えるためです。
(3)神のことばの聞き方については、前回学んだことを参照。
[4]結び
(1)現実の家族関係の限界、破れ、その根底にあるもの
恵みの神から離れ、血のみを重視。ヨハネ1章12、13節。
(2)神のことばによる、新しい家族関係の形成
Ⅰペテロ1章22~25節、エペソ4~6章参照。
①教会は神の家族
②家族は神の教会、恵みの事実の両側面
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。