~キリスト教信仰は自己表現の縦軸~
パフォーマンス学の定義は「日常生活における個の善性表現」ですが、「善性」という言葉はパフォーマンス学界で問題視されました。というのも「何に照らして善なのか?」―イスラエル、イラン、イラクでは争うのが「善」だと思っています。ミャンマーでは軍事政権で自由がないのが「善」だと思っています。国際パフォーマンス学会ではかなりこの定義に使った「善性」という表現に対して批判がなされました。世の中に悪い人が増えるほど「善とは何か」と思うようになります。何に照らして善かというのはとても問題なのですが、「善かどうかは聖書に書いてある」と思うととても気が楽になりました。
そうなると善悪判断の縦軸がぶれません。自己表現の縦軸は信仰、横軸は社会的生活です。ですから隣の人には嫌いでも挨拶しなければいけないと判断することができます。信仰があると縦軸がぶれなくなります。信仰は「縦軸としての善」と思ったときに、引きこもりの人、話下手な人や鬱の人でも「聖書に照らして善」というのはとてもシンプルな考え方であり、聖書に照らして善と思う事をどんどんやっていけばいい、「隣人を愛せよ」と書かれてあるので、不愉快な朝でも隣の人に挨拶しなければならないと判断できます。自己表現は信仰という縦軸があることで、横軸の自己表現が楽になり、迷わなくて良くなると思います。「聖書にこう書いてあるのだから、その通りにやればいい」と思えるようになります。ですからクリスチャンであるということは、パフォーマンス学を考えるときには有利に働きます。何にも軸がなく、自分の好き嫌いを軸にしていれば、嫌いな人がいれば避けてしまうでしょう。しかし「縦が神様」と思うと、横の振る舞いが公平になります。早くなり効率が良くなります。クリスチャンであることはパフォーマンス学においてとても有利なことだと思います。
CT 佐藤先生はとてもアクティブに様々なご講演や執筆など様々なご活動に取り組んできておられますが、神様を信じることがご自身のキャリア形成に影響を与えてきたのでしょうか?
~蒔いた種は刈り取れる、蒔かない種は刈り取れない~
神様を信じることは大いに影響を与えてきたと思います。ひとつは「蒔いた種は刈り取れる」という考え方ですね。
-「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(詩篇126篇5-6節)」という御言葉がありますが、聖書の考え方は、「夜になっても種を蒔き続けなさい。朝種を蒔いて、泣きながら蒔いた人は刈り取れる」-やればやっただけ刈り取れると聖書に書いてあるのです。やっても刈り取れないと思ったときにつらいのですが、聖書ではやったに応じて刈り取れることが明記されています。
「やったことは刈り取れる」と思うことがタフさの秘訣だと思います。元々普通の人よりはタフでしたがクリスチャンになってから、「自分が蒔いた種は刈り取れる」、「蒔かない種は刈り取れない」と思えるようになって、それならばどんどん蒔いて、「相手の人が元気になった」とか、「私の本を読んだ人が喜んだ」とか、「私のセミナーを聞いた人が明日会社でうまく話せた」とか、とにかく蒔くことで刈り取れる、蒔かなければ刈り取れない、という考えの基に行動できるようになりました。
CT 日本人の自己表現下手とキリスト教文化が薄いことは関係があると思われますか?
~言葉をきちんと話すためには聖書を読むべき~
日本人の中に「キリスト教の信仰がない」という事は、自己表現下手に多いに関係していると思います。私はキリスト教を信じるようになる前に、他の宗教に関する論文もたくさん読みあさりました。しかしもし仏教を信じたならば、最後は自分が無になるのです。諸行無常で、自分を無にしてゼロにして仏様に帰依します。我を無にして阿弥陀仏に差し上げる。即天国に行ってしまいます。しかしそう考える時、「人殺ししてすぐ南無阿弥陀仏、天国に行くだろうか?」「そんなに単純なのだろうか?」という疑問が沸きます。それならば結局人生で色々頑張っても空しいということになってしまわないでしょうか。
一方聖書の場合は結局「人生は空しくない」と言っています。仏教の場合は何かやっても「全部無です」ということになってしまいます。何をやっても自分の意思とは関係なしに変化してしまう。いろいろ努力しても、最後はゼロですよ、ということになってしまうと人生で努力することにあきらめの気持ちが生じてきてしまいます。無に等しいと言われると頑張りにくいのではないでしょうか。しかし聖書では「人生は無に等しいわけではない、この世はこの世で頑張って、最後は天国で会いましょうね」と言っています。この世はこの世で頑張れば、それに応じてちゃんと刈り入れるときが来る。そう考えると、人と意見が合わなかったら論争して、弁証法的にどんどん議論していけばいいと思えますが、人生の最後は無であると考えてしまうと「議論したら関係もゼロになってしまうかもしれない」と思って敢えて人と議論しようと思えなくなってしまいます。「ことばは神である」―と考えることが非常にキリスト教的だと思います。話さなければ互いのことはわかりません。
ピリピ書4章4節では「いつも主にあって喜びなさい」と書かれています。他にも聖書には「喜べ」と多く書かれています。つまり「生きていることはワンダフルで、死んでからもワンダフルである」ということですね。そうではなくて生きていること自体が空しい、諸行無常といわれてしまうと、「空しいなら生きてなければいい」と思ってしまわないでしょうか。口論することは空しいから話さない、話さないと誤解が生じます。
そうではなく、とことん話してやがてわかってくれる、AではなくてBですよ、いや、AもBも違ってCでしょう、そう語り合っていくことで収穫が得られるという、この考えはキリスト教的発想だと思います。パフォーマティブであること(自己表現的であること)はキリスト教の発想です。ですから日本人が自己表現下手というのは、言葉を重視するキリスト教の教えが広がっていないことと大きく関係していると思います。さらに同じ話すにしても「何が善であるか?」という根本のことを忘れると話しがばかばかしくなってしまいます。何もおかしくないことをおかしがったり、まったく意味がないことをすごいと反応したり、会話の実がなくなってしまいます。言葉のワード数は増えても、意味もない言葉を連発していては、話し上手とは言えないでしょう。そうではなく、きちんと力強く反対なら反対で言っていく、その中から真実を見つけていく-そういう考え方の方が結局、グローバル社会でも日本はうまくいくと思います。
聖書で「初めにことばありき。ことばは神だった」と言うくらい重い言葉、考えに考えて話す言葉は、本当にどうでもいい言葉ではありません。信仰がなく、「何が善であるか」を忘れてしまうと、きちんと信念を表現できないのに無意味なことはよく話す、ということが生じてしまいます。言葉を発するときは言葉の意味をかみしめて、必要な言葉はきちんと話すようにならなければなりませんし、それには聖書をきちんと読んでいただかないといけないと思います。
(前ページはこちら)
=============================================================================
<プロフィール>
佐藤綾子氏 略歴
長野県生まれ、パフォーマンス・心理学博士。内閣府認可社団法人パフォーマンス教育協会創設者・理事長、同協会認定パフォーマンスインストラクター資格発行者、株式会社国際パフォーマンス研究所代表、日本大学藝術学部教授。
ビジネスと人間関係づくりに直結する同氏の主宰する「佐藤綾子のパフォーマンス講座®」(SPIS)は18年の歴史を持ち、すでに3100人の卒業生を社会に送り出している。医療・政治・ビジネス・心理学、各分野の著書全162冊(2011年8月現在)。
(インタビュア 吉本幸恵)