10日から2日間にわたって東京・永田町の星陵会館にて行われた「ビル・ウィルソン東京大会2007―逆境をはね返す大成功の法則―」が11日、感動の中で閉幕した。同大会でウィルソン師が伝えたメッセージのテーマは「変化(トランスフォーメーション)するための土台を整える」。今大会でウィルソン師は「変化」するための基礎として4つのことを説き明かした。最終日となったこの日の午後6時から行われた第6セミナーで、ウィルソン師は「羊飼いの心を持ちなさい」と主張。「変化」するための4番目の基礎として「一段階高いレベルの愛」を目指すことを要求した。
セミナーの最初に、ウィルソン師は日本に変化が起こることを希求し、「日本が変わることはものすごいモデルをアジアに与えることになる。この最後のメッセージを通して皆さんが『本当の愛』に気付いてほしいと思っています」と切り出した。さらに同師は、「このメッセージを一人ひとりが真剣に受け止めてほしい」と観衆らに呼びかけた。
人の人生を変え、国と社会を変化させる一段階高いレベルの愛は一体どこから学べばいいのか。あるとき「羊飼いの心」とは何かについて考えるようになったウィルソン師は、その真意を掴むために聖書のあらゆる箇所を開いて調べてみたという。福音書やパウロの手紙を何度も読んだが結局明確な答えを得ることはできなかった。そんなある日、小預言書と呼ばれている旧約聖書のアモス書の一節に目が留まった。
アモス書3章12節には、「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように」と書かれている。ここには3つの登場者がある。それらは雄獅子、子羊、そして羊飼いだ。いま状況は、子羊が雄獅子に食べられようとしており、その場に羊飼いが遭遇していると考えられる。もちろん、狩りの経験がない羊飼いにとってはどうすることもできない状態だ。その子羊はすでに足まで食べられており、絶望的だ。しかも今行けば自分も獅子に食べられてしまうかもしれない。そうすると、自分が飼っているほかの羊たちもその獅子によって食べられてしまうかもしれない。
このような場合2つの選択肢だけが残されているとウィルソン師は説明した。その2つの選択肢とはc[1]その子羊の絶望的な状況を知りながらも、見て見ぬ振りをしてその場を立ち去る、c[2]どうすることもできない絶望的な状況だからといって見て見ぬ振りをしてただ立ち去るわけにはいかない。救いに対してわずかな可能性と希望を見出し、必死に救助に当たる。ウィルソン師は、「このような状況において一段階高いレベルの愛が試される」と語った。つまり、その場から「立ち去る」かそれとも「残る」かで愛のレベルが判断されるという。
ウィルソン師は、アモス預言者の口を通して啓示されたメッセージを解き明かすための、3つのキーワードを明らかにした。一つ目は「本能」だ。つまり、理屈ではなく本能的に動くことができるかどうかということだ。あるクリスチャンは大きな困難に直面しても本能的に判断し、すぐに行動に移す。しかし、一方ではじっくり考えてなかなか動こうとしないクリスチャンがいる。いまアモス3章12節には、何をすべきかはわからなかったがその子羊を本能的に見捨てることが出来ず、必死に救助に当たろうとした羊飼いの心境について書かれているとウィルソン師は指摘し、「神を信じている人には理屈なんて必要ない。本能的に動くのです。私がメトロ・ミニストリーを始めた時も何か計画があったわけではない。誰もやったことがなかったことを実行できたのはただ本能的に動いただけです。ただ一つだけ、『もう望みが残されていない』と言われている子にも『絶対に希望がある』という確信だけがありました」とウィルソン師は語った。
目の前で獅子に食べられようとしている子羊がいるにもかかわらず、見て見ぬ振りをして立ち去ることはできなかった。とにかく何とかして助けようとしたがやっぱりだめで、足だけが取れてしまった。あるいは耳たぶだけ取り返すことが出来た。「ああ、やるだけやったがやっぱりだめだった」というある種の満足感に浸りがちなのがいわゆる「平均的なクリスチャン」の姿だ。ウィルソン師は、多くのクリスチャン達が「やってみようと試したからいいではないか」と思い込み、その慢性的な「クリスチャン的思考」に陥ってしまうことを危惧した。
「私がかつて13歳の時に道端に捨てられた時に、一体何人が私の前を通り過ぎただろうか。数え切れない人が目の前を通り過ぎたが、立ち止まってくれたのはたった1人でした。たった1人です。この世の現実はそのようなものです。高いレベルの愛を目指すためには、まずその『現実』を知る必要があります」とウィルソン師は語った。続けて、「彼が立ち止まった瞬間、その一瞬の出来事が私の人生を変える劇的な奇跡を引き起こしたのです」と証しし、この真理を受け止めてほしいと切実に訴えた。さらに、「多くの人は誰かがやればいいと考えます。でもその誰かとは『あなた』のことではないのでしょうか。そのごく平凡なあなたがすさまじいい奇跡を引き起こすことができるのです」とウィルソン師は観衆に向かって強く呼びかけた。
また、2つ目のキーワードは「絶望」、つまり希望がないということだ。多くの人はやるべきことをやってみて、結果が出ないとすぐに頭にスイッチが入り、「やっぱりだめだ。絶望的だ」としてあきらめようとする。ウィルソン師がスラム街の子ども達を救うミニストリーをしていると、「先生が相手にしている子ども達にはすでに希望がありません。政府も、警察も、教会すら彼らには望みがないのです」と周囲の人々から言われることが多いという。しかしそんな人々に向かってウィルソン師は、「彼らには望みがないわけではない。彼らはただ希望を持てていないだけなのだ」と反論し、「福音こそ私たちに希望をもたらすものである」と主張した。
そしてウィルソン師は「私には絶望を語る資格がある」と述べ、同師がニューヨークのスラム街でごく日常的に対面する子ども達の写真を紹介した。そこには、顔がやつれ、目がうつろになり、肌がただれ、口が開き、今にも死にそうな10歳未満の子ども達の姿が映し出された。エイズの末期症状でベッドに臥す女の子、奇形で生まれたために泥の中に捨てられた顔面の変形した男の子・・・。「私は毎日このような子ども達を目の当たりにして生きているのです。私の世界へようこそ」と、ウィルソン師は静かに、そして真剣な面持ちで語った。
そのような死ぬ寸前の子ども達を紹介しながら、ウィルソン師は何度も「Hopeless」という言葉を口にした。この子も希望がない、あの子も絶望的、しかしウィルソン師はそんな希望のない子ども達を目の当たりにして、その場からただ立ち去ることはできなかったという。「私をじっと見つめて『助けてくれ』と叫ぶその声を聞きながら、『生きるんだ。死んじゃいけない』と呼びかけた。『絶対にいきるんだ!』と」。そのようにして、ウィルソン師は今までに多くの絶望的な子ども達を救いに導いてきたのだ。「絶望的な状況でも何とかしなければならない。その場において本能的に行動できるのがレベルの高い愛を身につけたクリスチャンの姿です」とウィルソン師は語った。
大切なことは何度までその働きを続けることができるかということだ。「一度はできるかもしれない。あるいは2度出来る人もいるだろう。しかし、3度目はどうだろうか。今度は自分の身に危険が押し寄せるかもしれない」。そう話しながらウィルソン師は、3つ目のキーワードとして「自己犠牲」を挙げた。
メトロ・ミニストリーの奉仕は自分の命を日々危険にさらすような仕事だ。暴力と破壊による犯罪が日常茶飯事に起こっているニューヨークのスラム街で伝道することほど危険なことはない。自分の命を犠牲にしながらも、どうしてウィルソン師はその場所へ戻ろうとするのだろうか。「それが主の御心ならば戻るのです。手遅れだからってただその場を立ち去るわけにはいきません。あきらめるわけにはいかないのです。どこに立ち去るというのか。そんな場所はどこにもない・・・だからできるだけ何度でも続けるのです」とウィルソン師は語った。
最後にウィルソン師は、「この国と社会を変えるにはさらに高いレベルの愛が必要です。その一段階高いレベルの愛とはこの『羊飼いの心』なのです」と述べた。「羊飼いの心を与えてください・・・」。ウィルソン師の静かな祈りが観衆らの心に届いた。
セミナーの参加者からは、「思った以上に悲惨な状況下でウィルソン先生が働いているのを見てすばらしいなと思った。子ども達に愛されている先生を見て自分も愛されるリーダーになりたいと思った」、「命を懸けて救いの働きをしなかった私が生ぬるいと思った。もっと本能的に行動したい」、「日本の子ども達にも心の飢餓状態がある。その心を満たしてあげたい」という声があった。