1.「生・病・老・死」
私たちは生きている限り、さまざまな問題に出会い、これらに取り組んでいかなければなりません。問題とは苦しみをもたらす事柄のことを言います。お釈迦さまは、人生の苦しみは「生・病・老・死」にあると言われたそうですが、生きること自体が苦しみであると悟られたわけです。要するに私たちはこの世という問題のるつぼの中に置かれて生かされているのです。
私たちの日常生活の多くの問題は自分で、すなわち自分の持っている能力、努力、知識、知恵、お金や人脈などによって解決されます。病気になれば薬を飲んだり、お医者さんのところへ行きます。自分で解決できないような法律問題については弁護士の助けを求めることができます。
しかし、だからといってすべての問題がそのようにして解決するとは限りません。私たちが生きる過程において、どうにもならないような問題が起きてきます。それこそ、神によってしか解決されないと思われるような問題は結構たくさんあるのではないでしょうか。
「苦しい時の神頼み」という諺がありますように、多くの人々が人生の本当に苦しい問題に突き当たって、初めて自分の限界を悟って、神を信じるようになります。私もその一人です。人生の苦しい時に、聖書をとおして天地万物を創られた全知・全能・唯一・絶対の神を知ることができました。そして聖書を学びつつ生活しているうちに、「あらゆる問題を解決する秘訣」を知ることができたのです。言いかえれば、人生の四つの苦しみ「生・病・老・死」の問題を解決する真理を知ることができました。
2.生きることは喜び
お釈迦さまに言われなくても、健康な人であっても、生きることは大変なことであることを知っています。受験、進学、就職、仕事、出世競争、結婚、子育て・・・と限りなく問題は続いて起こります。最近では、会社のリストラ、早期退職制度などもビジネスマンにとっては大きな問題となっています。生きることは確かに、大きな苦しみの連続であるということができます。
しかし、聖書によれば、生きることは、苦しみではなく、喜びです。天地・万物を造られた神は、人間を苦しめて生かすために造られたのではなく、喜んで生きるように造られたのです。
それにもかかわらず、人間が苦しんで生きるようになってしまったのは、人の心が神から離れて、神以外の別のものを第一に求めるようになってしまったからです。これを聖書では「罪」と言っています。「罪」の本来の意味は「的はずれ」ということです。すなわち、「罪」とは、人の心の方向が神という正しい目的(目標)からはずれている状態をいいます。
そのために、天地万物を創造し、所有しておられる私たちの天の父なる神が、あらゆる恵みをもって、その子どもたちを祝福し、満たそうとしているにもかかわらず、それを受けることができないのです。天の父に求めないで、自分で頑張って得ようとするから疲れてしまいます。人から取ろう、とするから争いが生じます。
人間の父親も、幼い子どもが父親から離れて頑張って一人で生きようとするのを望みません。また子どもたちが物を取り合って喧嘩をするのを望みません。親は子どもに必要なものや、子どもが喜ぶもので有益なものは何でも与えようとしますし、何よりも子どもたちが仲良く生きて欲しいと願っています。
聖書には、天の父なる神は、私たちが神を第一に求めていくならば、すなわち神を心から愛し敬って生きようとするならば、生活に必要なものはすべて与えてくださる、と約束されています。神の持っておられるすべてのもので私たちを満たそうとしておられる、と書かれています。私たちの「罪」をゆるし、私たちを救うために、御子イエス・キリストをも惜しまずに十字架につけてくださった天の父が、私たちに万物を与えてくださらないはずがあろうか、とも書かれています。
ですから、私たちは、明日のことを思いわずらう必要はないのです。どんなことをも心配しないで、神の溢れる愛と恵みの中で、一日一日を安心してお互いに愛し合って生きていけるのです。
神の目から見ると、私たちがお互いに愛し合って生きることが最も大切なことです。愛がなければ一切は無益である、と書かれています。たとえ、どんなに知識があっても、山をも動かす信仰があっても、人に全財産を施しても、その身を焼いて犠牲になっても、愛がなければ一切は無益であると、断言されています。
なぜなら、神は愛であり、私たちがお互いに愛し合うところに神がおられるからです。愛は喜びを生み出します。お互いに愛し合えばそこに喜びが生み出されてきます。ですから、神を信じて生きることは、お互いに愛し合って喜びにみたされて生きるということになります。
それでは、どうしたら人を愛することができるようになるのでしょうか。それは、無限の愛の源である神としっかり結ばれていくことによってです。ではどうしたら、無限の愛の源である神と結ばれていくのでしょうか。それは、神の御子であるイエス・キリストを信じることによってです。イエス・キリストを心の中にお迎えすることです。そうすると自然に神のいのち(神の愛)が心から満ち溢れてくるのです。
3.病気は癒される
人の第二の苦しみは病気です。軽い病気も重い病気も苦しみが伴い、日常生活に支障をきたします。重い病気にかかると、本人の肉体的苦しみだけでなく、家族や関係する人々にも大きな迷惑を掛けてしまいます。病気のため失業して収入の道が途絶えてしまうこともあります。
病気を治すために、実にたくさんの薬が市販されています。お医者さんの数もどんどん増え、病院も増えていきます。医学はますます発達していきますが、病人はかえって増えているようです。保険による医療費増大は国家財政にも重大な影響を与えています。
「病は気から」と言われますが、聖書によりますと、病気の原因のほとんどは「罪」にあると書かれています。その人の心が神から離れていることが原因で病気になるというのです。
聖書において神は、「わたしはいやす者である」と自ら宣言されています。また、神はすべての病を癒す、とも書かれています。神が人となられたイエス・キリストは、ご自分のところにきた人々のすべての病を癒されました。死んだ人をも生き返らせました。そして、キリストに従った弟子たちも病人をいやし、死人を生き返えらせました。
神に祈ることによって、また祈ってもらうことによって、人の心が神に向かい、神としっかりつながるようになります。そうすると、神のいのちがその人にそそがれ、病気が癒されるのです。
医師も薬も神の恵みによって病気を癒すためにあります。しかし、医師も薬も飽くまでも肉体に現れた病気の症状をなくしたり、緩和することができるに過ぎません。病気の原因である心の罪が癒され(赦され)なければ病気の症状は消えては現れ、消えては現れるのです。ところが神の癒しは、病気の原因である人の精神の奥深くにある霊の病い、すなわち「罪」を癒し(赦し)てくれます。「罪」が赦された結果として肉体に現れた病気の症状もなくなるのです。
ですから、医学の常識に従って「この病気はもう絶対に治らない」と諦めてしまうのと、「神によってこの病気はきっと癒される」と信じて、希望を持って生きるのとでは、大きな違いが生じます。
ボクシング元ヘビー級チャンピオンのイベンダー・ホーリィフィールドは試合で心臓発作を起こし、救急車で病院にかつぎ込まれました。医師団は、彼の心臓はボロボロの重傷で一生治らない、と診断しました。そのためボクシングの出場資格さえも失ってしまったのです。
しかし、キリストを信じていたホーリィフィールドは決して諦めることなく、癒し主である神の癒しを信じて祈り続けました。その結果彼の心臓は奇跡的に完全に癒されてしまったのです。医師団が自分たちの前回の診断の権威をかけて、何度も何度も精密検査を繰り返しましたが、何の異常も認められなかったのです。この神の奇跡の癒しによってホーリィフィールドの信仰が高められ、スポーツ評論家たちに47対1で負けると言われながら、タイソンを打ち破りました。
もしホーリィフィールドが医学の常識に従って「この病気はもう絶対に治らない」と諦めてしまったら、どうなったでしょうか。きっと、失意のうちに暗い一生を送ったことでしょう。
もちろん、いろいろな事情で病気が未だ癒されない状態にある方々もたくさんおります。しかし、神を信頼することによって、病気を物ともしないで生きていくことができます。
元高校の体育の先生であった星野富弘さんは、跳び箱から落ちて首から下がマヒしてしまいました。一時は自殺を考えた星野さんは、聖書を読んでキリストを信じて立ち直り、口で筆を加えて絵を画くことによって多くの人々に励ましと、慰めを与えています。
ヘレン・ケラー女史は生涯にわたって、目が見えない、耳がきこえない、口で話せない、という三重苦を負い続けました。けれども、天国に行ったら完全な健康体になるという確信をもって明るく生きて、世界中を回ってキリストを信じることのすばらしさを伝えました。
4.老後も安心
人の第三の苦しみは年老いることです。年を取ると、仕事もできなくなり、体力も弱まり、収入も少なくなります。家族や他の人のお世話にならなければならなくなるかも知れません。老後に備えて、年金や保険をかけますが、それでも不安です。
以前、ある一流会社に勤めている方と話をしました。その方は、「君ね、会社員にとって定年退職ほど恐いものはないよ。定年になったらすべてを失ってしまうんだ。まず、それまで何十年も働いてきた自分の会社という生活の場を失うんだ。それは、一緒に働いてきた人々との関係を失うことであり、収入を失うことでもある。また、得意先とのビジネスのコネも失ってしまうことになる。そして、仕事がなく毎日家でゴロゴロしていれば、女房に離婚されて、家族までも失ってしまうかも知れないんだ」と間近に迫った定年退職のことを切実に心配していました。
聖書には、神に従う人は年老いてもなお実を結び、いのちに溢れて、生き生きとして生活できる、と書かれています。また、人を造られた神は、人が年老いて白髪になっても背負って面倒を見てくださる、と書かれています。これほどの安心がありましょうか。天地万物を造られた、全知全能の愛の父なる神が、私たちが年を取っても元気はつらつとして生きられるようにしてくださり、私たちの老後を面倒見てくださるというのです。定年後にも神はきっと新しく楽しい生活の場を備えてくださっているのです。聖書のみことばを信じることによって、すなわちキリストを信じることによってそれが可能になるのです。ですから、愛の神を信頼して、安心して年を取っていきましょう。
5.死は天国への希望の門
誰もがいつかは死にます。死を避けることはできません。人は死ぬことによって、この世のすべてを失います。死ぬときの肉体的・精神的苦痛を考えるだけで恐くなります。そして、死後の世界についての漠然とした不安があります。
しかし聖書においては、死に対する明快な解決が与えられています。「イエス・キリストを信じる者の魂は永遠に天国に生きることができる」ということが、死の問題に対する決定的な解決です。
内村鑑三氏は、最愛のお嬢さんのルツ子さんが若くして亡くなられた時の葬儀において、「ルツ子さん、万才!」と叫んだそうです。それはルツ子さんがキリストを信じていたので、必ず天国に行ったという確信があったからです。悲痛な思いで葬儀に列席していた矢内原忠雄氏は、これを聞いて大きなショックを受けて、聖書を真剣に学んでキリストを信じるに至りました。(その後、矢内原氏は東大の経済学の教授となり、キリストを信じるが故に日本の第二世界大戦に反対したため大学を追われ、投獄されました。しかし、戦後復職し、キリストの福音の伝道者として働きながら東大学長の要職をも務めました。)
ですから、キリストを信じるならば、死はもはや恐れるべきものではなく、天国への希望の門となるのです。年を取れば取るほど、天国に近付いていると信じて、明るく生きることができるのです。
6.あらゆる問題を解決する秘訣
以上、「生・病・老・死」という人生の四大問題の解決についてお話ししてきました。
「あらゆる問題を解決する秘訣」はすべて聖書に書かれています。その秘訣を一言でいえば、「イエス・キリストを信じる」ということです。言い換えると、「イエス・キリストこそがあらゆる問題の解決である」ということです。それでは、イエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか。それは聖書に書かれています。
聖書によれば、キリストこそは、唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能なる神と一体なる方、神の独り子なる御子、天地万物の創造者・支配者、王の王、主の主、万軍の主、栄光の主、勝利の主、平安の君、とこしえの父。
また、キリストは、私たちの罪の身代わりとして命を惜しまず与えてくださった救い主、贖い主、私たちに永遠の命を与えるために死の力を克服してよみがえられた復活の主、やがて私たちを迎えにきてくださる再臨の主。
さらに、キリストは、私たちのためにどこにでもいてくださる遍在の主、私たちとともにいつもいてくださる臨在の主、私たちの心の内に住んでいてくださる内住の主。
そして、キリストは、完全なる聖にして、義にして、愛なる方、最強の力なる方、道であり、真理であり、永遠の命であられる方、あらゆる病の癒し主、すべての問題における助け主、あらゆる束縛から自由にしてくださる解放の主、無限の恵みの与え主、最後の裁き主、大祭司なる方、最も良き教師・弁護人、最も慈しみ深い友なる方、そして私たちの花婿・夫となられる方であり・・・私たちにとって「すべてのすべて」であられる方です。
これはイエス・キリストについて聖書が語っていることの一部です。聖書全体がイエス・キリストを証しています。私たちの心の内に入ってこられ、同時に私たちをご自身の内に入れてくださるイエス・キリストは、このようなすばらしいお方なのです。
要するに、「キリストを信じる」ということは、「天地万物の創造者である、全知全能の愛の父なる神と一体となる」ということを意味します。このような偉大な神にとって解決できないような問題は何一つないのではないでしょうか。
私たちがキリストを深く信じれば信じるほど、神の偉大な無限の愛と喜びと平安と叡智と力と尊厳と栄光の世界に入っていくことができます。神のすばらしさに感動し、感激し、圧倒されるようになってきます。そうすると、私たちがこの世の人生で抱え込んで苦しんでいる、いろいろな問題が、どんどん小さく思えてきます。あの問題、この問題と悩み苦しんでいることが馬鹿馬鹿しく思えてきます。ちょうど幼い子どもたちが、ママゴトをして遊んでいるに過ぎないように思えてきます。一切が全能の父なる神の御手のうちにあり、その愛する子どもである私たちの益となるように完璧に運ばれていることを悟ることができるようになります。
神は私たちに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」と言っておられます。それは、すべての事は、神によって私たちにとって益にされていくからです。ですから、すべての事を神に委ね、任せて、天の父を信頼してお互いに愛し合って、自由に楽しく生きていきましょう。
聖書には、勝利の主・キリストを信じる者はこの世の「勝利者」である、と書かれています。しかも単なる勝利者ではなく、あらゆる状況において「圧倒的な勝利者」となる、と書かれているのです。私たちはキリストを信じて生きることによって、あらゆる問題を解決し、克服し、超越して、圧倒的な勝利者となることができます。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:5)
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。