わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(黙示録3:8)
昭和48年5月頃、友人と愛知県稲沢市の教会へ伝道に出かけました。名神高速道路で木曽川を通りかかった時、突然友人が、「ラジオ放送をやってみないか」と話しかけてくれました。あまりに突然なことで、とっさに「できません」ということばが出かかりました。それはいろんな状況を考えてみてそうだったのです。話も上手でないし、お金もないし、教会も日曜日の礼拝出席が10名ちょっとと、どう考えても、「やりましょう!」と引き受ける状況ではありませんでした。しかし、友人は続けて、「返事は1カ月くらい後でいいよ」と、私が、「できません」と言う前に言ったのです。
私がもしあの日、木曽川で、「ラジオ放送なんてとてもできません」と断っていたら、今も私はラジオで話してはいなかったでしょう。私たちは、「できません」「とても無理です」「私はだめです」という否定的な考えやことばで、多くの祝福を失ってしまいます。私は幸いなことに「できません」と言う前に、1カ月間の期間が与えられ、「できません」ということばを飲み込んでしまったわけです。そのことを心から感謝しています。
その夜、稲沢市の教会へ着いた時、祈りました。「神様、ラジオ放送の話がありました。私は心の願いとして持っていますが、今はお金も力もありません。教会も小さく弱いのです。どのようにしたらよいのか教えてください。心から神様を信じます。一人でも多くの方に、神様の愛とイエス・キリストの救いをお伝えしたいと願っています。どうぞ、力をお与えください。アーメン」。そのように祈りながら、聖書を開きました。すると黙示録3章8節のみことばが目に飛び込んできました。それは2000年前に書かれたみことばではなく、今語りかけてくださる神様のみことばのようでした。
「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙示録3:8)
私は自分の不可能や弱さ、不足、経済力のなさ等、否定的、消極的な面のみを見つめていました。しかし、聖書は「見よ!」と私の目を転じさせてくれました。目が転じて見た時、そこには誰も閉じることのできない門が開かれていました。限りない可能性の門です。無限大に広がる祝福の門です。確かに、聖書にあるとおり、少ししか力がありません。しかし、少しばかりの力を全能の神様にお任せする時、奇跡は起こります。なぜなら、神の生命が、神のパワー、力が流れ込んでくるからです。だから、私たちは少しばかりの力を嘆くことも、悔やむ必要もありません。生命の源である全能の神につながればよいのです。
少しばかりの力でも、キリストのみことばを守り、その名を信じて進む時、そこに必ず、大きな祝福の門は開かれていきます。その日以来、黙示録3章8節は、私の人生を生かし、導くすばらしい生命のみことばとなりました。そしてどんな時でもこのみことばを、確信をもって告白しています。事実、神様はすばらしいことを続けてくださっています。
いかがでしょうか。今、あなたの前にも、イエス・キリストによって開かれた救いの門があります。少しばかりの力でもいいではありませんか。「イエス様、信じます」と言ってください。限りない祝福の門、救いの門が、必ず大きく開かれます。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。