このコラムを読まれた方から質問がありました。「それでは長い祈りはいけないのですか?」
結論は、祈り続けることが大切ということです。聖書を読んでいると長い祈りの例がたくさんあります。サムエルの母ハンナは、子どもがないために心は痛み、主に祈って激しく泣き、長い祈りでくちびるが動くだけで、その姿はまるで酔っているようでした。
祭司のエリは、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」と注意しましたが、彼女は、「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」と答えました。彼女はその待望の祈りの中で、明確な答えをいただき、喜びに顔を輝かせ祈りの座から立ち上がりました。
ハンナの祈りは長年の待望であり、同時に時間をかけた祈りだったのです。伝道者の書に、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。・・・神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3:1、11)とあるとおりに、神の深いご摂理があることを、私たちは知っています。
神がまさに良しとしてくださり、みむねの定まったときに答えが与えられることを、聖書の教えからもよく理解し、心配しないで祈り通す幸いを経験したいものです。
ある著名な経営者が、毎日800項目を上げて祈り、1項目2秒で祈っていると聞き、ご本人に直接お聞きしたら、にっこり笑って1000項目に増えましたとのこと。朝目覚めたら静かに主の前に静まり、約1時間以上かけて祈り続けるそうです。その結果、1000項目もあるので、1つのことにわずか1〜2秒の時間だそうですが、大きな祈りのヒントになりました。
イエス様は、「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(マタイ6:5〜8)と教えました。
つまり同じことを繰り返したりしなくて良いのです。綺麗な語彙をもったいぶって盛りたくさんにしなくても、神の子どもとして素直に祈れたら最高です。
同時に、最高の神の子どもですから、「しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする」(イザヤ32:8)と聖書にあるように、高尚な願いができるように聖霊に信頼し、我欲だけに捕えられず、高貴な祈りをも心がけたいものです。
フランシスコの祈りを模範に高貴な祈りを捧げるよう励みたいと願っています。
平和の祈り
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしにもたらさせてください・・・
憎しみのあるところに愛を、 罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、 悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください・・・
慰められるよりも慰めることを、 理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、 死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。