すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。(使徒3:6、7)
平和行進を終えて談話しているときに、ある宗教者が「いろいろな企画があるのですが、いつも予算がなくて断念しています。宗教活動に専念していてお金がないものですから」と話すのを聞いて、少し奇異に感じました。
お金を生み出すためには、目的を持って事業することもあれば、生活を切り詰めて貯蓄することもあります。宗教者はお金を生み出すことを最初から目的にしていませんので、なくて当たり前だと思います。だから、お金を口実にして、企画を断念するというのはおかしいと思いました。
聖書に登場する預言者の一部は、自分のものだと主張できる持ち物はほとんどなく、食うや食わずのありさまでした。
預言者エリヤは、アハブ王の迫害から逃れてケリテ川のほとりに身を隠しました。その時、神様はカラスを用いてエリヤを養っておられます。また、川の水が枯れると、今度はやもめを用いて養われました。(1列王記17章)
キリストは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ8:20)と語っておられます。大勢の人々の前で素晴らしい教えを語り、病気の人々を癒やしていたのに、今日流の表現をするならホームレス生活者ということになります。
使徒パウロは新約聖書の書簡を13通も書き、当時の地中海世界全域で伝道する大伝道者でしたが、自分自身の生活費は天幕作りというアルバイトで賄っていました(使徒18:3)。聖書に登場する信仰者に従えば、お金がないから行動できないとは言えません。
会場が借りられなければ、路傍で誰かに語ることができるかもしれません。今の世であれば、SNSを用いて発信することもできますし、オンライン集会も考えられます。
インドの釈迦は王家の第一王子であり、王の後継者でしたが、その身分を捨てて出家しました。修業の果てに悟りの境地に入りました。日々の生活は托鉢(たくはつ)によって賄っていました。ある時、王から実家に帰るように言われたときも、実家のある町で早朝から托鉢をしていました。
それに対して王は、「どうして物乞いのような恥ずかしい真似をするのか」ととがめました。釈迦は「これは物乞いではなく、大切な働きなのです。ただ物を受けるだけなら物乞いですが、その家の祝福を祈るなら、大切な働きなのです」と答えたそうです。
お金をもうけることは、決して悪いことではありません。そのお金をどのように用いるかが問われているのです。お金をとても大事にしている、ある社長さんの話を聞いたことがあります。その方は、お札にアイロンをかけて真っすぐにしているそうです。財布は、お札にしわが寄らないようなものを選び、財布の中で休めるように、枕に見立てた小さな紙も入れているというのです。
そしてお金を使うときは、お札に「ありがとう」と言い、「また仲間を連れて帰って来てね」と念じるというのです。また、小銭はピカピカに洗浄しているそうです。お金をもうけるために、経済学、経営学をいかに学び、日々の努力を積み重ねたかという話は何度も聞きましたが、お札の取り扱いの話は初めてで驚きました。
中世の欧州では、商取引には金(きん)が用いられていました。しかし、金は持ち運びも大変だし、家に保管しておくのも安心できません。そこで信用できるユダヤ系の金融家に保管してもらうようになり、金の預り証が発行されました。
この預り証だけで金の代わりに通用するようになりますが、これが紙幣の始まりです。紙幣の発行元は中世から今日に至るまで、ユダヤ系金融業者です。名前を中央銀行に代えていますが、株式会社になっていて、ユダヤ系財閥が株を保有しています。
ユダヤの富豪も出発点は貧しい家庭だったそうです。爪に火をともすような生活をしてお金を貯めて、運用を繰り返して財を成していったそうです。大きな財産を築いた今日でも質素を旨としていて、決して贅沢はしないと聞いています。
お金があれば、何でも問題が解決しそうな気がしますが、そうではないと思います。足の不自由な男の人にペテロがお金を上げても、一時的な喜びに終わったでしょう。しかし、足が癒やされることによって、自分の足で歩き、仕事ができるようになり、生きる喜びを味わったのです。
お金は「通貨」というよりも「通過」と言った方がいいくらい、私の元にはたまってくれませんが、それでいいと思います。金銭は大切に扱い、生かして使う人の所に集まるといわれます。
ある方が私にアドバイスしてくださいました。「あなたは宣教に専念しなさい。お金が必要なときは、お金を扱うことができる人とタッグを組みなさい」。全てを忘れて自分の使命に打ち込んでいると、いつの間にか必要が満たされ、前に進むことができます。
経済至上主義の社会の中で、人々の心は疲弊しています。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」というペテロの言葉は、私たちの魂に届くのではないでしょうか。
ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖(あがな)い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18、19)
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