リンカーンが、黒人たちの歓迎の中でもみくちゃにされながら、リッチモンドの町から引き上げようとしたとき、一人の黒人の女の子が、摘んだばかりの白い花を持ってやって来た。そして、それを差し出しながら言った。
「ありがとう、あたしたちのお父さん」。すると、あっちからも、こっちからも黄色やピンク、紫の花が投げられた。それらは、子どもたちが、母親に手を添えられて投げたものだった。
リンカーンはその中の一つを拾うと、それを胸のポケットに飾った。大きな歓声と拍手が湧き起こった。リンカーンは両手を広げると、大声で叫んだ。
「皆さん、もうあなたがたは、奴隷ではありません。白人と同じ米国民なのです。真面目に働いて、一生懸命学んで、今まで不幸であった分、幸せになってください」。「われらの父、リンカーン大統領ばんざーい!」後ろに立っていた若者が叫ぶと、また歓呼が湧き起こった。
この時、街角に立っていまいましそうに舌打ちしている男たちがいた。彼らは南部の富豪たちに雇われたやくざで、リンカーンを亡き者にしようと相談していたのである。
「奴隷たちの機嫌をとっていやがる。だが、今に見ろ!」「ブースを抱き込んだから、成功は間違いない。あいつは腕のいい殺し屋だからな」
*
1865年4月14日のことだった。リンカーンはワシントンのフォード劇場にメアリ夫人を同伴で姿を見せた。久しぶりで暇ができ、彼は芝居でも楽しみたくなったのである。
2人が2階脇の貴賓席に着くと、人々は一斉に拍手して歓呼した。「リンカーン大統領、ばんざい!」リンカーンは帽子を脱ぐと、にこやかに左右を見渡してあいさつした。
やがてそれも静まると、幕がスルスルと上がった。リンカーンは久しぶりにくつろいだ気分になり、芝居に見入った。そして時折、メアリ夫人と楽しそうに小声で何か話し合った。
とその時、いつの間に忍び入ったのか、一人の若者が足音を忍ばせて2階に上がり、リンカーンの座席の入り口の陰に身を潜めた。この男こそ、南部からやって来たブースという名の殺し屋だった。
舞台の上では芝居の真っ最中で、観客はうっとりと見とれていた。男はドアを開いてリンカーンに近寄った。
パン、パーン! 銃声がとどろき、人々はあっと驚いて振り返った。煙が立ち込める中、リンカーンは両手で頭を抱えてよろよろと倒れた。両手の指の間からは鮮血がほとばしっていた。
「待て、くせもの!」リンカーンを護衛していたラズボーン大佐が犯人を追った。すると男は、短刀を振るって相手の腕に切りつけ、舞台裏に逃げ込み、姿をくらましてしまった。
突然の出来事なので、観客はただぼうぜんとしていた。それから皆で必死になってリンカーンを介抱したが、もはや手の尽くしようがなかった。ラズボーン大佐は、リンカーンの静かに眠る顔にそっとハンカチをかけた。
4月19日。リンカーンの棺は国中の人々の悲しみに送られて、イリノイ州スプリングフィールドの森に向かった。その道々、ニューヨークでも、シカゴでも、フィラデルフィアでも棺は教会堂に留められ、盛大な祈祷式が行われた。町中では半旗が翻り、人々は腕に喪章を着けた。
スプリングフィールドの教会堂に棺が安置されると、赤、白、黄、紫の花々や緑の木々の葉などを持ち寄った村人たちの手で飾られた。そこへ、生前よく知っていた者たちが駆けつけてきたが、彼らの頬には涙が光っていた。
「ああ、とうとうエイブは逝っちまったか」。友人だったジョンが花をたむけつつ、両手で棺をなでながら言った。「いや、われらのエイブは死なないぞ」。仲間が言った。「この人の精神は、アメリカ合衆国の血となっていつまでも伝わるんだ」
やがて厳かに鐘が鳴り、故人の愛唱していた聖書が読まれると、大人も子どもも、農夫も文化人も、政府高官も一緒になって祈りをささげた。
その場所から少し離れた所に、遠くから徒歩でやって来た黒人たちのグループがおり、同じように祈っていた。その一人がふと目を上げてつぶやいた。
「天国に行ったら、ゆっくり休んでください。私たちのお父さん」
*
<あとがき>
「エイブラハム・リンカーンの生涯」の連載も、いよいよ最終回を迎えました。世界中で愛されているこの偉人の生涯を紹介させていただきましたこと、本当に幸せなことと思っております。
米国の歴史の中で、大統領や政界の主な官僚の暗殺という暗い出来事は汚点となっていますが、そうしたものを拭い去るかのように、エイブラハム・リンカーンの名は世界各国の人々に愛され、とりわけ少年少女のための偉人伝では群を抜いて愛読されてきました。
素晴らしい伝記が何冊も出版され、それで育ったという小学生も何人もおります。なぜこれほどリンカーンという人物が愛されているかといえば、彼が持つ正義感と、燃えるような人類愛のためでしょう。
2人の母親からキリスト教信仰を植え付けられて育った彼は、神の前に決して許されない社会悪である「奴隷制度」の廃止のために生涯を懸けたのですが、その熱血が私たちの肌を通して伝わってくるのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。