「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8:12)
2人のハンターがペアを組んで猟に出かけました。夜になって仲間の一人が大きな鹿を担いで、よろめきながら帰ってきました。
「おい!相棒はどうした?」と聞くと、「いやネー! 猟をしてたらこの大鹿が突然飛び出してきて、相棒にドスンとぶつかってさ、相棒もこの鹿も両方とも気を失って倒れたってわけさ! それでオレは急いでこの鹿を捕らえてこの通り帰ってきたってわけよ」と答えました。
皆はびっくりして「それじゃ、おまえは気を失った相棒をそのまま森の中に置いてきたのか?」と聞くと、「そりゃ当然だろー!考えてもみろよ。森の中に置いてもアイツを盗んでいくやつはいないと思うよ」と言うのです。この男の優先順位は完全に間違っています。
イエスの時代の宗教的指導者も、優先順位が完全に間違っていました。生まれつき盲人の人がイエスによって見えるようになったことを共に喜ぶよりも、安息日にこの癒やしを行ったイエスを批判し、この男も会堂から追放したのです。
彼らにとっては人の命より、自分たちの宗教的伝統を守ることの方が優先していたのです。イエスは彼らに言われました。
「わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます」
「夜」とは何でしょうか。直接的にはイエスがこの世から取り去られる十字架の死のことです。しかし別の意味で、私たち一人一人に「夜」が来ます。それは個人的な「死」です。「死という夜」が来たら、もう信じたくても信じられないのです。だから昼の間にイエスを信じなければなりません。
米国の有名な作家であり、軍人でもあり、また無神論者でもあったアレン陸軍大佐。奥さんは熱心なクリスチャンでしたが、アレン大佐はいつも奥さんの信仰をバカにしていました。ある時、彼の娘が大変な病気になりました。それで、教会のエリオット牧師が訪問しました。
アレン大佐はエリオット牧師を自分の書斎に案内し、自分の書いた無神論を証明する本を見せて、神を信じる人間がいかに愚かであるかを得々と話していました。その時、アレン家の召使いがけたたましく部屋に入ってきました。
「ご主人様、お嬢様が危篤です!」アレン大佐とエリオット牧師は急いで娘の部屋に行きました。その時、娘が苦しみの中で最後の力を振り絞って父親のアレン大佐に尋ねたのです。「お父様、教えて! 私は恐ろしいの! だから一つだけ教えて!」「何だネ?」と父親が聞くと、彼女は言いました。
「私は今日までお父様を尊敬して、お父様の言うことを信じてきたの。でもお父様の教えでは私は不安なの。お母様がお話ししてくれたイエス様のことを思うと心が平安になるの。私は一体どっちの教えを信じたらいいの? お父様教えて」
それを聞いてアレン大佐の全身はわなわなと震え、あごはガクガク、膝はブルブル顔面蒼白。そして、アレン大佐は言いました。「お母さんが教えてくれたことを信じなさい」。エリオット牧師にも頼みました。「娘のためにお祈りをしてください」
私たちは、夜が来るまでは平気で論じていられます。しかし、夜は全ての人に来ます。その時、あなたの信じていることはその夜の中で希望の光、平安の光を与えてくれるでしょうか。
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