あなたがたのうちのだれかが羊を100匹持っていて、そのうちの1匹をなくしたら、その人は99匹を野に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。(ルカの福音書15章4節)
クリスチャンにとって、新約聖書のルカの福音書15章はとても大切な、そしてとてもメジャーな箇所である。あの「放蕩(ほうとう)息子」を筆頭に、「見失った羊」「無くした銀貨」などの例えが3連発で語られるところだからである。分かりやすく「神の愛」を説明してくれている。
しかし一方で、「見失った羊」の例えでよく言われるのが、「残された99匹はどうするのか」という問いである。これは「放蕩息子」の例えにおけるお兄さんの心情を代弁しているともいえるし、クリスチャンホームで生まれ育った子たちも、「分かる、分かる」と共感する箇所であろう。
本書『赤ちゃんポストの真実』は、慈恵病院(熊本市)の蓮田太二理事長の決断によって生まれた「赤ちゃんポスト」(同病院での名称は「こうのとりのゆりかご」)の実態を丹念に追跡したルポである。著者の森本修代氏は、熊本日日新聞社の記者でもある。慈恵病院の赤ちゃんポストは、2007年5月に「遺棄され、虐待される赤ちゃんを救う」ことを目的として設置された。子どもを産んだものの、育てられない親から赤ちゃんを預かることが使命となっている。その際、匿名でも預かることが可能という点が、他の病院や医療機関とは一線を画している。
当時から賛否両論が渦巻き、大きな話題となった。そして設置から7年後、2014年1月から3月にかけて「明日、ママがいない」というテレビドラマが放送された。劇中、主人公の少女(芦田愛菜)のあだ名が「ポスト」となっていたことで議論が再燃した。主人公がかつて、赤ちゃんポストに預けられた過去があるという設定だったのである。それを知った慈恵病院は反発する。開始から7年が経過しても、赤ちゃんポストを設置していたのは依然として慈恵病院のみだったことから、このようなドラマが、実際に赤ちゃんポストに預けられた子たちに対する風評被害につながるのではないか、と懸念を表明したのである。これはまだ記憶に新しい出来事であろう。
本書は、これらの出来事を丹念に追いながら、さらに私たちが見過ごしてきたさまざまな「実態」を赤裸々にえぐり出す。例えば、「初めに預けられた子は3歳児だった」とか、「匿名で預かった子には当然戸籍がない。だから健康保険証を手にできないまま成長せざるを得ない」という事実などである。さらに驚かされるのは、当然預けられたときは名前もないため、誰かが命名しなければならない。それを担った(というより、担わざるを得なかった)のは、慈恵病院がある熊本市の市長だった。当時の市長であった幸山政史氏は、著者のインタビューにこう答えている。
こんなこともしなければならないんだな、その子が受け入れてくれるだろうか、という気持ちです。(中略)ゆりかごに預けられた子どもの場合、顔を見ないで名前を考えるんです。写真も見ない。担当者から話を聞いて、想像を膨らませて考えます。行政の手続きの一つで、書類上の話なんです。ゆりかごを許可したということは、こういう場面にも出くわすのか、と。重い判断をしたのだと思いました。(50~51ページ)
赤ちゃんポストによって、確かに命は助けられることになるが、預けられた赤ちゃん(もしくは子ども)はその後、行政の手続きによって差配されるため、児童相談所の管轄となり、特に赤ちゃんポストに預けられ、親が分からない場合は、まったく彼らの「善意」によって次の展開を模索せざるを得ないことになる。このあたりのシステムを、私は本書を通して初めて知った。
一人の命を助けたら終わりではない。その一人を、「残りの99匹」が待つ「社会」へと送り出せてこそ、人として、また日本人として生きる権利を手にできるのである。まさに冒頭で述べた「残された99匹はどうするのか」という問いに連なる現実的な問題である。
また、もう一つ深刻なことは、赤ちゃんポストができてからすでに14年がたっているため、そろそろ預けられた彼らが10代半ばを迎えるということである。彼らはおしなべて自分の両親を知りたがる。当時、慈恵病院で看護師長だった下園和子氏は、著者のインタビューにこう答えている。
自分のルーツが欠落してしまう。出自と命は対立するものではなく、どちらも守っていけるものではないかと思うのです。(32ページ)
こんな感じで、各章に衝撃の展開が待っている。全10章に序章と終章を加えた12章構成だが、読み進めるのがこんなにつらい体験は久しぶりであった。しかし、「読み進めなければならない」と何者かに後を押されているかのような感覚に終始とらわれ続けたことは否めない。
本書は、善意をあふれるほど抱くクリスチャン、教会関係者に、頭をガツンとやられたかのような衝撃を与える一冊である。「命が何より大切」。そう叫ぶことは尊いだろう。しかし、その叫びを発しているだけでは、ある種無責任だという現実を突き付けられることになる。本書は、最近読んだ本の中で、現実的な課題を突き付けるものとしては一、二を争う書である。そして、私たちクリスチャンが避けては通れない関門を差し示してくれる貴重な一冊である。
■ 森本修代著『赤ちゃんポストの真実』(小学館、2020年6月)
◇