ある日曜日の礼拝の時間に、牧師がこのように説教を始めました。
「今日、この会衆の中に、殺人者がいます。確かにその人は、先週、人を殺しました」
そこまで話が進んだ時点で、会衆がざわつきました。各自が心の中でこう考えました。
「一体誰が人殺しなのだろう?!」
「そんな人と同じ場所に居たくない!」
「私に危害が及ばないだろうか?!」
牧師は聖書を引用しました。
「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです」(Ⅰヨハネ3:15)
「この会衆の中に殺人者がいます」という言葉のインパクトがあまりにも強かったので、引用した聖書の言葉が耳に入ってきませんでした。
牧師は、他人事と思いながら座っている「あなた」のこととして話したのです。
イエス様は、心の中で人を「バカ者」と考え、「悪者」と見下すこと自体、すでに殺人を犯しているに等しいと教えます。
2003年に米国がイラク戦争を始めたときに、イラクを「大量破壊兵器の保有国である」ので「悪」と断定しました。それが大義名分となり、見下す心が働き、正義として戦争が正当化されました。
しかし、大量破壊兵器は存在しませんでした。結果論ですが、そんな恐ろしいことがいとも簡単に行われてしまうことがあり得るのです。
傷害事件や殺人事件は、相手をバカにしたり、悪者と断定したりするところから始まっています。やがて、見下す心が生じ、「月光仮面」のように、正義が悪者を退治するような気持ちで、相手に危害を加えてしまうのです。
一つの例え話をします。
「鳥」が、自分の頭の上に「糞(ふん)」をすることは防げなくても、「鳥」が自分の頭の上に「巣」を作り始めたら、やめさせることができます。
人に対して、バカにしたり、悪者と考えたりすることは一瞬のうちに心の中で起こってしまいますが、鳥が巣を作るのをやめさせられるように、否定的な思いを悔い改めて、取り除くことができるはずです。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:26~28)
憎しみを愛に変えるためにはどうしたらいいでしょうか。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とイエス様は語りました。
自分の力で敵を愛せるなら、もはやその相手は敵ではありません。それができないから敵なのです。相手のために祈って、「憎しみ」を「愛」に変えていただくことです。
愛する人に対しては、バカにしたり、たとえ間違っていたとして、そう簡単に「悪者」と断定したりしません。むしろ、善意で解釈し、許容します。
バカにし、悪者と断定し、見下した人には、腹が立ち、害を加えたくなっても、愛する人には、善意で解釈し、そう簡単に腹を立てることはありません。
昔、「愛は勝つ」という歌謡曲がありました。当時は、女々しいきれいごとに聞こえましたが、今はそうではありません。愛こそ最も大切なものです。そして、愛が勝利をもたらします。愛せた人は人生の勝利者であり、チャンピョンです。
けんかをして勝ってそれが勝ちでしょうか。結果、関係が破壊され、多くのものを失い、双方が傷を負います。
けんかに負けて勝つという道があります。
相手を愛していたら、けんかを売られてもかみ合いません。売られたけんかを買わないことは負けでしょうか。本当の勝ちです。失うものがないばかりか、そのことで人間関係が深まり、双方の徳を高め合います。
愛は勝つのです。
イエス・キリストは十字架にかかり、死んで墓に葬られ、日曜日の朝に復活されました。
キリストは、無抵抗で十字架につけられました。自分の力で十字架から降りてくることすらできなかったのです。どう見ても敗北です。
しかし、キリストは、全人類の罪を一身に背負われて十字架に向かわれました、もしそこで、スーパーマンのように、十字架から飛び降りて、自らを十字架にくぎ付けた連中を退治し、勝利したとしたらどうでしょうか。かっこいいですが、そこでキリストが勝ってしまったら、敗北だったのです。
私たちの罪を赦(ゆる)し、救いの道を開くことはできませんでした。
キリストは、負けて勝ったのです。一見、負けたかのように十字架で死んで、墓に葬られましたが、日曜日の朝、高らかに復活し、信じる者に救いを与え、罪と死と悪魔に対して完全な勝利を取られました。
そして今、あなたを招いておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
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