「神様が私を導いて下さっている」、そうハッキリと判る程、神様のみ業が鮮やかに見えて来たのは、私が慶応病院に入院した頃からであったろうか?
この二年の間に私の体重は11キロも減少した。身体の何処かにガンがあるといけないからと騒がれて、当時慶応のインターンの医者(この4月38歳で同大学医学部教授を命じられましたが、これも一つの奇蹟かも知れません)であった我が子の意見によって、精密検査をする事になって、信濃町の慶応病院に入院手続きをしたのは、1993年9月30日の事である。僅か4日後の10月3日、たまたま空いたベッドがあって、早くも許可が下りて入院する事が出来た。忙しすぎる日常生活の中に、思いがけず与えられたこのゆとりの時間に喜んで、私はいそいそとベッドの傍らを整理し、賛美のテープレコーダーと、アンドリュー・マーレーの祈りの本と、それに、平素読む事が出来なかった、牧師からお礼として頂いた分厚いシーセンの『組織神学』の本を置いた。そして横になって読み始めた。
この神学の本を見て、看護婦の中村さんが、「あなたはクリスチャンですか?」と、語りかけて来た。彼女は、「以前ガン病棟に勤務して、多くの人が死んで行く姿を見ましたが、そういう時の、クリスチャンの様子は、余りにも他と違うので、感動しました」とそう言われた。このお話で私は嬉しくなったので、前日お茶の水まで外出して、妻のためにと買った本、田中信生牧師の『魅力ある生き方ガイド』(いのちのことば社)を彼女にプレゼントした。その時彼女がこの本に、一筆書いて下さいと繰り返し言われるので、本の背に私の心境を書き込んだ。
「検査される私の横に、イエス様がおられます。燦々と注がれる、恵みを加えられる日々。夏の海、ひたひたと押し寄せるその波が、いっぱいに私を包む様に、その愛を与える方が、主であると知るのです。満員電車を降りて、お茶の水駅前の、人混みの横断道路を渡る時、そのざわめきの中に、心豊かにせられる時、ふと気が付くと、其処に、主がおられます。--限りなきキリストの愛を語って、この口を開き、この心を開き、その幸せを告げずにはおれない−−1993年10月 S.NAKAJIMA」
敬愛するエミー・カーマイケルの心情に倣ったものでした。
退院して間もない或日、早速中村さんからお便りが来ました。「街の木々もすっかり色づいて、慶応病院八S病棟から見える神宮外苑の景色も、秋らしくなりました。入院中は気のきいた事もあまり出来ずにいましたが、ただあなたのご様子に、看護婦という仕事を離れて、心和む時間となりました。全ての状況を肯定的に受けとめ、プラスにしておられる姿が感動的でした。頂いた『魅力ある生き方ガイド』は、友人看護婦に回し読みしており、この本に書かれている「魅力ある人」に共感しましたが、今私は、あなたこそ魅力ある人であったと気づきました。私が看護婦という仕事を選んだ理由は、相手を通して自分を知り、学び、向上して行けると思ったからです。それなのに、いつしか、何かをしてあげたのに、こんなに一生懸命してやったのに、と患者さんに求める気持ちが強くなり、傲り高ぶっている自分の姿に気づく事があります。あなたの姿を見て、振り返って自分が恥ずかしく、初心に返りました。感謝します。−−」
あまり誉められた事ではありませんが、入院中私は、ある人(マスコミ関係、自称大学教授、実は講師)が、高飛車に看護婦を叱りつけ、婦長を呼べと言っているのでこの人と喧嘩して、病室を変えられてしまったのです(その時中村さんが変えてくれました)。 退院して間もなく11月になりました。私の職場(星薬科大学)で、学生の石川さんと語り合って、金沢キリスト教会の船津牧師にお願いして作った小さな聖書研究会が開かれました。その日特に、アメリカで著名なデイル・クレール先生(米国・カルバリー・キャンパス教会牧師)をお迎えして、大学の一室で集会を開くことになっていました。この日、私は心に汚れを感じていたので、かえってキリストのもとで一生懸命働こうと考えておりました。多くの人に語りかけて出席を誘いました。その結果、かなりの人が来ると言っていたのに、当日になってから、思惑は悉くはずれた事が判りました。出席すると言ってくれた教職員は、何れも、仕事中だからと言うし、来る筈だった学生は用が出来たと言うのです。もうあと30分で始まるというのに、私の助手の水野さんの他には誰も来ないのです。この集会は、通訳を含めて牧師が三人も来て下さるというのに、それを聴く聴衆が、私と石川さんと水野さんのたった三人になってしまいそうです。私はこの有様に責任を感じ、誰もいない図書館に行って祈りました。そうして心落ち着いて、再び仕事を始めた時、石川さんが来て、「先生方が到着してお待ちしています」と言われるのです(とうとう、その時が来てしまった!)。それで直ぐに私は、その部屋に行きました。
驚いた事にゼロではなくて八人もの人が丸くなって円座に座っていました。私はすぐに理解しました。この人達が、深い信仰の人達である事を。ただ黙っているだけなのに、聖なる(そして懐かしい)聖霊が部屋一杯に充満していたのです。三人の牧師さんと五人程の他大学の学生さんが黙祷しておられました。私は聖霊に力づけられて元気になり、研究室に戻って、大学院学生に声をかけてみたら、今度は不思議な事に、皆が直ぐ行きましょうと快諾してくれたのです。更に二年生が集まって来た。一年生も来た。そして私自身が入ると、その部屋は20人を数えて、あっと言う間に、一杯になってしまった。この間、ほんの数分の事でした。こうして、デイル・クレール師のメッセージが行われ、無事に終わりました。その後、師はこう言われたのです、「この中に、罪を持っている人がいます。その方は手を挙げて下さい。イエス・キリストにお願いして、赦しを与えられましょう!」と。
全く驚いた事に、その声は、真っ直ぐに、まるで私を指して言っている様に聞こえて来るではありませんか! そんな筈はない、だって、デイル・クレール師は私の正面ではなく、真横に座っておられます。しかしそれなのに、確かに真っ直ぐに私の方に向かって聞こえて来るのです。おかしいと思いました。確かに私は罪人です。然し、私は教員なのです。殊に、今日の学生は、私が大学院の教師として教えている学生ばかりでしたから、手を挙げる訳に行かないのです。そのうち、二回目の言葉、お勧めがありました。私は手を挙げたい気持ちは山々なのです。でも、今回は、私は牧師の隣に座っている、いわば主催者ですからと、勝手な理屈を考えていました。然し一方で、手を挙げないままこの会が終わってしまっては困るという気持ちが起こって来ました。そして次の瞬間、俯いていた私の心に、向かいの二人の学生が手を挙げるのが見えてしまったのです。そうして三回目のお勧めがあった時、私はとうとう手を挙げてしまったのです。−−この瞬間私は、心の奥底からこみ上げて来る怒濤の様な流れに、打ち勝てなくなってしまいました。立ってデイル・クレール師が祈って下さるうちに、涙が一杯頬を伝わって来ました。学生の前ですから、心はどんなにぼろぼろでも、姿だけでも毅然としていたかったのですが、ハンケチを使って泣いていたのです。私は鼻が悪いので、涙が出ると鼻水が出るのです。
すべてが終わって私達が廊下に出た時、私は知りました。一人の黒人を含む五、六人の外国の人が、中でなされる説教者とそれを聴く人々のために、二時間もの長い間、外で立って祈っていてくれたのです! それらの人達は、終わるとともに、さっと合流して、薄暗い夕暮れの道を、まとまって帰って行きました。その後ろ姿を見送りながら、私は、強い感動に打たれていました。イエス様が来られた! はるばると。しかも大勢の天使の軍団を連れて(人間の罪の汚れを消すために)。こんな事って、本当にあったのですね。星薬科大学聖書研究会は、この日、神の軍団に守られていたのです。私は、次の日も、またその次の日も、またその次の日も、一日中、ジーンとした御霊の恵みに満たされていました。イエス様が天使を連れて来て下さって、そうして去って行かれた。御霊の賜物を残して。この時イエス様が言われたのです、これは二千年前の事ではない。私は今、信じるあなたとともにいるし、必要ならば天使を連れて、いつでもやって来るのであると。
遠藤周作(カトリック信者)の有名な小説『影法師』に、掟を犯して糾弾され、日陰者の生活をするカトリック神父さんの悲しいうらぶれた物語があります。信仰者であるが故に、犯した罪の大きさが、より強く感じられるのでしょう。然し、そんな時、イエス・キリストは果たして、そのクリスチャンを救いに来られないでしょうか? いや、必ず来られると思うのです。その様な、キリストの出現は、時として、ダイナミックで奇跡に満ちた恵みとして、与えられます。
年明けて正月(1994年1月4日)、デイル・クレール先生から私のもとに、お手紙が届きました。その中に、「−−私は、あなたがあなたの学校で、教師の立場によって、伝道につとめ、また一方クリスチャンとして、証しをされる様に祈っています。私は、神様の愛があなたの中にある事を認めます。そうして、あなたの学生が、あなたを大いに信頼し、かつ尊敬する事を知っています。この1994年に、あなたを、新しい素晴らしいダイナミックな方法で、主が用い続けられる様にと祈っています。神は賛美すべきかな!『イエス・キリストにあって、なし得ない事はない』(マタイ一七・二〇)」と書かれてありました。
デイル・クレール先生のこの文面を見た時、私は内心大変驚きました。先生がその書簡の中で、「信頼と尊敬」という二つの言葉を用いられていた、「何という事だ! これは数日前(つまり、デイル・クレール師がこの手紙を書かれたその時)に、実現していた!」のです。
最近新聞報道されている様に、大学教員再評価といって、文部省主導で、教員が学生からアンケートの形で評価される事になっていました。私はこの問題についての大学の実行委員でしたから、さっそく先ず自分自身について、学生による評価アンケートを取り終えた所でした。アンケートの項目は多くありましたが、その中で、「この先生の人柄(平等、正義、信頼)について尊敬と好意を持ちますか?」という項目について、九五パーセントの学生が、五段階評価で最高の評価五を記入してくれていたのでした。
この事のあった約一週間後(1月13日)、世界五千万人の人に説教して数百万人の人を回心させたと言われるアメリカの大伝道者ビリー・グラハムの大会が後楽園ドームを四日間借り切って開かれました。私はこの大会では希望して、カウンセラーとなっていましたが、感冒で体調を崩していました。しかし、当日の私に「頑張りなさい」と限りなく力づけてくれたのは、直前に学生が私にくれたこのアンケートであったかも知れません。
不思議な事に、この「ビリー・グラハム大会」は、私の母と姉が、神様に触れる特別な機会となりました。私の母は子供達にとても優しい母でした。教会に戻った私と、洗礼を受けて新しくクリスチャンとなった妻の二人で、毎日欠かさず祈った事は「母の病床に、キリストが御臨在して守って下さる様に」であって、すでに祈り続けて四年が経っていました。そのせいか、母は明るい平安な心で、病床を過ごしていてくれましたから、それだけでも私達には満足な事でしたが、神様は、遥かに素晴らしい事を、この目に見せて下さった。
献身的に病床に仕えていたが信仰は無い姉が、母の死が近い事を感じたのでしょう。心に慰めを求めて、このビリー・グラハム大会に来て、しかも、イエスを救い主として信じますか、と聴くグラハム師の招きに応じて、祈られるため、後楽園の広いグランドに出て行きました。そしてそれから二週間後に母が召されました。こうしてその二週間は、姉が初めて教会に行き始めた二週間であったのです。だから姉は、私の考えを入れて、仏教ではなくキリスト教によって母の葬儀を行いましょうと言ってくれました。父の葬儀は仏教でしたから、他の兄弟達が強く反対しましたが、母に献身的にかしずいた姉の言葉によって、葬儀はキリスト教で行われると決まったのです。
母の死の数日前、母が最期らしいと姉から伝えられて、私達は母の病床を訪ねました。この時、正直に打ちあければ、「神様は母をこれまで安らかに見守って下さった。が然し、この最期の時には、苦しむ姿を見なければならないのであろうか?」と心は不安でした。
ところが、私が母の寝室に入って母を見た時、何と驚いた事でしょうか! −−母は恵みに満たされて昏睡していました。そうして、部屋全体は聖霊に満たされ、昏睡する母のベッドの枕元に、(ああ何と言いあらわしたら良いでしょうか!)あの神々しくて、然も限りなく、ジンとしてあたたかい、金色の霧の様なイエス・キリストの御臨在の姿形を見る事が出来たのです! それがイエス様だという事は直ぐに判りましたから、静かな深い驚異の悦びとともに、聖なる畏れ多い気持ちに満たされ、暫しの後、限りなく去り難くも、そっと部屋を出て、黙って妻に代わりました。代わって入った妻も同じ事を見たのです! 帰り道、その不思議さについて、互いに語り合いました、「こんな不思議な事を見る事が出来ただけでも、生きていて良かったね」と。−−四年に及ぶ私達の祈りは、まざまざと叶えられて、尊いメシヤが、母の病床にともにおられたと、神様は私達に語って下さったのです。
デイル・クレール先生が下さった預言は、更にもう一つありました。それは「今年は、あなたに主がダイナミックな福音の進展をお見せになるでしょう」と、言われた事です。私はこの事が何を意味するのだろうか、初めは期待して待っていましたが、今になってみれば、それが何を意味するか、もう明らかではありませんか!
それは私と妻による共著、日記と証し集『主イエスとともに』が出版されたことです。その事を通して主が用いられる事を示されたダイナミックな御業でした。始めはただ、私の定年に当たって、友のために学生のために日記を公開して、彼らにとって困難な闘いが正しく導かれるために必要な唯一の方が、キリストである事を語りたいと願ったのです。だから内輪に印刷して学内に配る嵐閧ナした。ところが、私の港南シオンキリスト教会の野川牧師が推薦状を巻頭につけて下さり、続いて杉田キリスト教会の久保田牧師のお力添えがあって、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出版局(福音出版社)から立派なひょうしを付けて出される事になって、これも母の葬儀の場合と同じく、あっと言う間に、同じお二人の牧師先生のチームワークによって、迅速に局面が前向きに変わってしまったのです。−−こうして、一介の信者の単なる日記が、二五〇頁の立派な本になって書店の店頭に出る事になりました。出版日は大きく遅れましたが、そのため、思いがけず私達の結婚記念日(11月20日)に出版される事になりました。出版されると直ぐに馬越玲子さん(この『主イエスとともに』のひょうしの三位一体を示す三本のバラの絵、それを、妻の受洗祝いにと、描いて下さり、今は天に召されてしまったカトリック信者、馬越轄吾先生の奥様)がお手紙を下さいました。それには、「本当に不思議な事でございます。この御本の出版された日は、夫が天に召された日でございます。この不思議な一致を思い、娘とともに感動して神様を頌","たた"えております」と。
日記と証し集、『主イエスとともに』の執筆、出版をするについては、定年前の一年(多少ゆとりを下さる?)であるとは言っても、理科系大学院、博士及び修士課程研究指導という仕事から言って、無理が無かった訳ではないと思います。それでもそれができた理由の一つに、母の葬儀があったのかも知れません。−−葬儀がキリスト教で、たまたま星薬科大学から近い桐ヶ谷葬場で、前記の二牧師の司式によって、立派に行われたので、参列してくれた人(殆ど全大学教職員)に、静かではあるが平安であり、むしろ楽しいキリスト教の葬儀に、理解ある感情が芽生えた。キリスト教の葬儀は良いですねえ、と人々が言ってくれた。その二に、「ビリー・グラハム大会」に出席してくれたK学長が、この本の出版について期待を示してくれた事が支えになりました。その三に、デイル・クレール師の聖書研究会をきっかけにして、私の研究室直属の水野助手が私と同じ教会に出席する様になり、間もなく受洗して、心の支えとなってくれました。こうして、『主イエスとともに』の本が出版される必要な準備は、神様が着々と整えて下さった。出来上がった本は、水野姉と私とで、教授会、事務局、学生寮、クラブの学生、授業の学生へと配布されて行きました。−−そうしてそれが広がるにつれて、かえって私の心は畏れ多い思いで満たされ、妻と二人で、「この証し集は、イエス様あなたのものです、私のものではありません」と祈りました。−−ところがどうでしょう。イエス様は、全く思いがけない所から、これを、広げようとなさっておられました。
医学薬学書籍出版の広川書店社長の広川さんが、化学、薬学生のための専門誌『化学と薬学の教室』にこの本の紹介を出して欲しいと言って来られました。−−この雑誌は純然たる学術系雑誌であるから全然違うのです、こんな事ってあるでしょうか、こんな前代未聞の事を、第一、編集長が賛成する筈はないでしょうが! とそう思いましたが、それでも四月号に出る事になったのです。広川節男氏がこの本を読み、聖書研究会に学んだご自身の青春時代を思い出し、是非薬学の人々に紹介したいと言うのです。−−私は襟を正しました。今やこの証し集を、運ばれているのは私ではなく、イエス様ご自身ではありませんか。
間もなく、『化学と薬学の教室』(一九九五年四月号)の一頁全面に亘って新刊紹介が掲載されました。「最近、星薬科大学聖書研究会のN教授が書いた本は興味深い。序文の推薦によると、『一途な愛をもってイエス・キリストを愛し、砂漠に水が注がれる様に聖霊を慕い、−−神様に迫る愛で満ちた証しを読む時に、神をまだ知らない方は其処に何かを感じられるでしょうし、神を知る者はキリストの愛に圧倒されて、主をほめたたえずにはおられない事でしょう(野川牧師)』とある」と書かれていました。
アメリカのクリスチャン林姉からは、「感動に包まれて、読む事が勿体ない気持ちになっていきます。少しずつ、少しずつ、と涙の出る思いで読み続け、一頁一頁が、心の宝となっていきました。あなたは口下手で、上手に語られる訳でないのに、お心の中にあるものを、文字にあらわすと、それは神様の聖言を寄せ集められた様な、感動を与えられるのですね。この数ヶ月、職場の行き帰り、私はこの証し集を手離した事はありません。職場で心痛んで疲れた時、この本を読んでは平安に満たされました。そうして幾度勇気づけられた事でしょう! この頃の私の楽しみは、あなたが、こんなにまで影響を受けたという、アンドリュー・マーレイの本を書店で探し歩く事になりました」との手紙が届きました。
この一年、こんなにまでして、キリストが、次から次へと、この貧しい取るに足らない私に、不思議な御","み"業","わざ"を起こされて、用いられて行く道をととのえて下さる(しかもそれは、次から次へと関連して続いているのです)、御恵みの大きさに驚き感謝して、「神様、どうかこの恵みをいつまでも継続して下さい。このひれ伏す貧しい我が身の上に、あなたの大御心が顕わされますように」と祈るばかりでした。 =つづく=