これまで私は、多くの週にわたって「律法」と「福音」について、それぞれ書いてきましたが、今回から数回にかけて、この「律法」と「福音」がどのような関係になっているのかを、「契約の箱(アーク)」の構造と比較しながら見ていきたいと思います。今回の連載の核心部分であり、神様の私たちに対する深慮を感じることができる内容になるかと思いますので、忍耐をもってお付き合いをいただけると幸いです。
「契約の箱」とは、インディ・ジョーンズシリーズの第1作であり、全世界で大ヒットとなった映画『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』のモデルであったと言えばピンと来る方もいるかもしれません。契約の箱は、映画のタイトルにもあるように「Ark(アーク)」と言われるのですが、ノアの洪水の話に出てくる箱船も「アーク」と言われます。共通点は、どちらも「救い」を象徴しているということです。ノアの箱舟は滅びからの「救い」そのものを絵のように見せており、契約の箱は、私たちが救われるための律法と福音の構造を絵のように見せているのです。
契約の箱に入っている物
まずは、契約の箱の中に何が入っていたかを確認します。契約の箱の中には、以下の三つのものが入っていました。
- モーセが神から与えられた、十戒の書かれた石板
- イスラエルの人々が荒野を旅したときに、食物として天から毎日与えられたマナ
- 芽の生えたアロンの杖
これらは大まかに言いますと、「神の言葉(戒め)」「共におられる神」「神による希望」「神の力」などを意味しています。しかしソロモンの時代になると、不思議なことにいつの間にか、十戒の書かれた2枚の石板以外は箱の中から無くなっていました。聖書を確認してみましょう。
箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。(Ⅰ列王記8:9)
そして、他の二つがなくなっても、契約の箱は契約の箱として本質的に機能していたのです。つまり、他の二つも重要な意味を持っていますが、特に「十戒」は、契約の箱の中に絶対に無くてはならないものだったのです。本連載においても、論点を分かりやすくするために、石板に書かれた十戒にフォーカスしていきたいと思います。
十戒とは、モーセが神から直接与えられた十の戒めのことです。その具体的な内容に関しては以前書かせていただきましたので(参照:律法と福音(4)多義的な用語としての律法)、重複は避けますが、要するに神の基準において正しいことが戒めとして書かれたものでした。戒めとは「~をしなさい」「~をしてはならない」というものであり、正しいものであるとも説明させていただきました(参照:律法と福音(5)律法(戒め)の性格)。そして、十戒とは律法の中核部分と言ってもいいでしょう。
神罰
問題は、それが正しいものであるにもかかわらず、人々に与えられると、悲劇が起こるということです。例えば、モーセの十戒がイスラエルに与えられたときに、多くの人が死にました。その詳細を確認してみましょう。
モーセが神様から十戒を与えられたとき、彼はシナイ山の山上で40日40夜神に祈り、神と語り合っていました。それを待っていたイスラエルの人々は、モーセがあまりにも長い間山から降りてこないので、モーセは死んだのではないかと思い始めます。そして何と、神様が嫌われる偶像をつくってしまいます。山から下りてきたモーセは、民が金の子牛を偶像としてつくり、それを拝し、その前で歌ったり踊ったりしているのを見て、大きな罰を民に与えることを決断します。聖書を確認してみましょう。
そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行った。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。(出エジプト32:26~28)
またある時は、この十戒の入った契約の箱が、敵であるペリシテ人に奪われてしまうことがありました。ところがこの箱が安置される町々において、人々は神罰により死んでいきました。ついに彼らは恐怖にかられ、契約の箱をイスラエルに送り返さなければならないほどでした。
そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。(Ⅰサムエル5:11)
これらの事件が教えているのは、こういうことです。
「神の戒め(律法)のあるところには、必ず罰(死)が伴う」
では、罰をもたらした十戒(律法)とそれを入れている契約の箱は、悪いものなのでしょうか? 絶対にそんなことはありません。律法は正しく霊的なものであり、良いものなのです。問題は、その正しい法を受け入れることのできない、私たち人間の内にある「罪」なのです。そこらへんのことが、パウロという使徒によって新約聖書にはっきりと書かれています。
それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。(ローマ7:7)
ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。(ローマ7:12、13)
では、この、正しいものではあるが、罪人である人間にとっては恐ろしい刑罰を伴う「十戒(律法)」と、それを中に入れている「契約の箱」を、イスラエルの人々は忌避(きひ)し、拒絶したでしょうか?
祝福
そうなっても不思議ではありませんでしたが、彼らは契約の箱をイスラエルの宝として非常に大切にしました。特にダビデ王が、それを自分の町に迎え入れたときの喜びようは、尋常ではありませんでした。
こうして、ダビデとイスラエルの長老たち、千人隊の長たちは行って、喜びをもって主の契約の箱をオベデ・エドムの家から運び上ろうとした。・・・全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。こうして、主の契約の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。(Ⅰ歴代誌15:25~29)
ダビデはあまりの喜びように、妻ミカルに軽蔑されるほどに踊りまくって歓迎しました。なぜダビデとイスラエルの人々は、神罰の伴う契約の箱をこれほどまでに熱烈に歓迎したのでしょうか? もちろん神様に対する敬愛と熱意によったのですが、契約の箱が人々にもたらしたのは罰(死)だけではなかったからです。聖書を確認してみましょう。
このようにして、神の箱はオベデ・エドムの家族とともに、彼の家に三か月間とどまった。主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。(Ⅰ歴代誌13:14)
実は、契約の箱がダビデの町に運ばれる途中で、もう一つの悲劇が起こりました。ウザという人物が、悪意はなかったのですが、契約の箱に手を伸ばして触れてしまい、神様の罰を受けて死んでしまうのです(Ⅰ歴代誌13:10)。
それを目撃したダビデは、契約の箱を迎え入れることをためらい、オベデ・エドムという人の家に、それを一時的に預からせます。するとオベデ・エドムの家と彼の家族、作物、土地、家畜など、彼に属する全てが、誰の目にも明らかなほど祝福されたのです。それを知ったダビデは、もう一度勇気を得て契約の箱を自分の町に迎え入れることにし、先ほどの大歓迎ぶりを見せたのです。結果、今度はイスラエルの国全体が祝福され、ダビデは周辺敵国との戦いに勝利し続けました。その子ソロモンの代には、イスラエル王国は全盛期を迎え、その地の覇者として君臨することになります。
このように、契約の箱というのは、多くの不思議な現象をもたらしたのですが、簡単に言うと、「祝福と罰(死)」がそれに伴ったのです。では、これらのことは、現代の私たちと何の関係があるのでしょうか?「律法と福音」の関係を理解する上で、どのような意味を持っているのでしょうか? そのことを、これら数回にわたって見ていきたいと思います。
【まとめ】
- 契約の箱の中には、十戒が入っていた。
- 十戒および契約の箱のあるところには、罰(死)が伴った。
- と同時に、契約の箱のあるところには、祝福が伴った。
- この契約の箱は、律法と福音の関係を絵のように見せている。
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