レビ記2章
(1)レビ記2章の主題と大きな流れ
①レビ記2章の主題
「穀物のささげ物」(1節)
②大きく三つの部分に大別
イ.1~3節、生のもの
ロ.4~10節、焼いたもの
ハ.11~16節、様々の規定
③1~3節と4~10節、同じ形で記されている
つまり1~2前半と4~8節前半は、「・・・ときは」(1節、4節)、このようにすると記述。さらに2節後半~4節と8節後半~10節は、祭司のなすべきこと。また4~10節では、何で焼くかで分かれる。
イ.4節、「かまどで焼いた穀物のささげ物」
ロ.5節、「平なべの上で焼いた穀物のささげ物」
ハ.7節、「なべで作った穀物のささげ物」
このように細かく秩序立って書かれている事実が印象的。そのいずれも、一部は記念の分として焼かれ、大部分は祭司とその子らのものとなる。
④11~16節、幾つかの規定
11~13節、してはならないこと、禁止。枠組みを定めておくことが大切。14、15節、「初穂の穀物のささげ物」。16節は、3、10節と同じ。
11~16節も漠然と集めたものではなく、美しく秩序立つ構造で記されている、その意図を汲みつつ理解する。
(2)「穀物のささげ物」
当時(古代オリエント世界)の一般的生活用語。
「そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである」(創世記32章20節)
「父イスラエルは彼らに言った。『もしそうなら、こうしなさい。この地の名産を入れ物に入れ、それを贈り物として、あの方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、くるみとアーモンド」(創世記43章11節)
創世記の2箇所で、「贈り物」と訳されていることばとレビ記で「穀物のささげ物」と訳されていることばは、もともと同じことば。創世記の2つの例に見るように、「贈り物」「穀物のささげ物」とは、難しい間柄をこれによって円満に保って行く役割を果たす。また権力者への忠誠を誓うしるしとして用いられた。
以上の例から、レビ記2章においても、
イ.主なる神への忠誠を表すため、
ロ.また感謝だけでなく、献身を指し示すため
用いられたと考えられる。
出エジプトの恵みとの密接な関係と共に、周囲の偶像礼拝の場合との区別が大切。偶像礼拝のように、神々を人間が支えるのでも、ご利益を目的とするのでもない。
レビ記に見る聖書の祭儀は、神と人との交わり・和解が中心。
(3)13節
「あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない」
穀物のささげ物は、生の物でも焼いた物でも、すべて「塩」を欠かしてはならない。13節には、「塩」が3回繰り返し用いられて、念を入れるように強調。
塩は当時、長い年月を経過しても不変なものと考えられていた。それで、契約を結ぶとき、互いに塩をなめて、契約の不変性を確証した(参照・マルコ9章50節)。
出エジプトの恵みもシナイでの契約も、この神の恵みは、まさに不変。この事実を現す塩。この恵みを感謝し、応答する姿勢も不変。
(4)「初穂の穀物のささげ物」(14節)
「もしあなたが初穂の穀物のささげ物を主にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない」
私たちも、感謝と献身のささげ物を日々献げる。穀物は、比較的安価なもの。それを主なる神に献げるが、大部分は人々の不足を補うために用いられる。
また初物、それはわずかの量であるが、それをもって全体は主なる神のものであると告白する。この一部をもって、全体が主なる神の御前にあるとの告白をもって。私たちの献金も、私たちが主なる神から与えられているもの全体の一部。しかしその一部をもって、全体が主なる神からのものであり、そのように用いることができるようにとの祈り。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」