北朝鮮の実質ナンバー2の指導者であり、金正恩総書記の後継人であった張成沢氏が失脚させられ、粛清されました。また、特別軍事裁判が開かれ、「国家転覆陰謀行為」に関する憲法違反により死刑判決を下され、即日刑が執行されました。
これは、「正しいか? 正しくないか?」というよりも、張成沢氏が金正恩総書記の言うことを聞かなかったので、その逆鱗に触れたのでしょう。さらに、このまま放置しておくといずれ驚異的な存在となって、クーデターを起こされでもしたら、自分の身に危険が及ぶ可能性も危惧したのでしょう。
北朝鮮の姿を見ていると、人間の罪の本質を見るような気がします。真実や愛の追及を動機とするのではなく、自分の利害打算、嫉妬、高慢、恐怖等を動機として他の人を断罪しているのです。
また、罪のない人をも血祭りにあげて喜ぶというおぞましい残虐性を人間は持っています。いわゆる人民裁判は民主的な仮面を冠っているだけで、本当は一部の悪の扇動者にあやつられているだけです。
ともすると、現代のマスコミの多くはこの悪の扇動者に成り下がっているのではないでしょうか。
実は、これと似たことは色々なところで起こっています。
小沢一郎裁判は、まず「黒」と断定してかかっていて裁判が進められました。私は、「いじめじゃないか?」とさえ感じました。
猪瀬都知事への集中審議に至っては、裁判をかける前に、まず「黒」と決めてかかって、寄ってたかっていじめているように感じなくもありません。
もちろん、黒かもしれません。しかし、「疑わしきは罰せず」が司法の大原則です。
もう次回が最終回ですが、「リーガルイハイ2」を見て、司法に対して深く考えさせられています。
「安藤貴和(小雪)」という登場人物は、検察がマスコミに情報を流し、マスコミが国民に情報を流すことで、誰もが「安藤貴和は殺人犯だ!」と思い込み、「死刑」が国民の総意であるかのような状況の中で、確たる証拠はないのに、「疑わしき」だけで、民意に逆らえずに死刑が確定しそうな中、「古美門弁護士(堺雅人)」とパートナーの「黛弁護士(新垣結衣)」が、果敢に立ち向かいます。
私は、この場面を見ていて、イエス・キリストが十字架にかけられる前の裁判を思い起こしました。
教会では、毎週日曜日に「使徒信条」を告白します。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ……」という文言がありますが、このポンテオ・ピラトは裁判長ですが、ピラトは、何度も無罪を主張しています。
「見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません」(ルカの福音書23章15節)
「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します」(ルカの福音書23章22節)
さらに、無罪の主張はピラトだけではありませんでした。イエス様がガリラヤ出身であることを知って、ガリラヤを治めるヘロデ王にイエス様の身柄を引き渡しましたが、ヘロデ王は、イエス様を罰することもしないでそのまま送り返してきました。
つまり、無罪判決です。
これは、地方裁判所、高等裁判書、最高裁判所と判決が重ねられるように、イエス様は、無罪判決が言い渡されて来たのと同じことです。
しかし、ピラトは、ユダヤ教の宗教指導者やユダヤの民衆の声に勝つことができずに、十字架刑をやむなく受け入れることになりました。
「この人を除け。バラバを釈放しろ」(ルカの福音書23章18節)
「十字架だ。十字架につけろ」(ルカの福音書23章21節)
民衆の声は鳴り止むことなく、不気味に鳴り響き、収拾が付かない状態にまで発展しました。これは、ピラトでなくても、誰でも同じような判断をせざるを得なかったことでしょう。
私たちが当時のユダヤの民衆であったとしたら、同じように、「この人を除け。バラバを釈放しろ」「十字架だ。十字架につけろ」と愚かにも叫んでいたに違いありません。
人間の罪の性質は、このような形ではっきりと現れています。
今、私の周囲を見渡すと、「疑わしきは罰せよ!」という風潮がないわけではありません。「疑わしきは罰せよ!」の大義は、「火のないところには煙は立たない」です。
しかし、今こそ私たちは、「疑わしきは罰せず」という原則と、いくら疑わしくても、「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」という「推定無罪」という原則に立ち返るべきです。
リーガルハイに登場する古美門弁護士役を演じるのは堺雅人です。同じ堺雅人でも、半沢直樹のキャラクターとは違います。しかし、現代社会の闇にするどく光を当ててくれるところは似ています。
北朝鮮の政治を見て、恐怖政治だと多くの人が思うことだと思いますが、イエス・キリストを十字架につけたユダヤの民衆と指導者も、そして、現代の日本も、全く同じ罪深い性質を持っていると思います。
イエス様による殺人の定義は、次の通りです。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイの福音書5章21節~22節)
兄弟に向かって『能なし』『ばか者』と言うものは、殺人と同罪だと言うのです。
最後に、「KY(空気読めない)」という言葉も、『能なし』『ばか者』と同じように「いじめ」であり、「殺人」です。
確かに、集団の中で、「空気を読めない人」がいたら不快でしょう。しかし、それを「KY」と断罪したり、無視したり、仲間はずれにすることはないでしょうか?
もしあなたが「KY」として周囲の人から扱われたとしたら、どれだけつらいことでしょうか。まさに、精神的「死刑」に処せられているほどの痛みを経験しないでしょうか?
教会は、「この世と妥協しない場所」です。しかし同時に、罪人の集まりです。世の中と同じか、それ以上に卑劣な人がいる可能性があります。
でも、そんな一人一人が変えられていく場所が教会です。
日曜日は教会に行きましょう。そして、神様を礼拝し、神の一人子イエス・キリストの姿に変えられていきたいですね。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(コリント人への手紙第二3章18節)
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菅野直基(かんの・なおき)
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッション等、地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での讃美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式等、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
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