花婿が取り去られたら
ルカの福音書5章33節~39節
[1]序
今回は、ルカ福音書5章33節以下の記事を味わいましょう。この箇所は、「あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」と食事とのかかわりで、32節までの記事と結び付きます。
[2]「花婿が取り去られたら」
(1)33節
①洗礼者ヨハネの弟子たち、断食を度々、彼らなりの祈りをなす群れとして(ルカ11章1節、ヨハネ3章25節以下参照)。洗礼者ヨハネの死後、エペソにヨハネの弟子たち。またパリサイ人たちの間では週に二度の断食(ルカ18章12節)。
②主イエスの弟子たちに対して。悔い改め(32節)を目指すと言いながら、「食べたり飲んだりして」いるのは何故かと問い詰めます。
(2)34、35節
主イエスの答え。主イエスも断食を認めておられ(マタイ6章16節以下)、初代の教会においても実践(使徒の働き13章2、3節)。ここではなぜ主イエスの弟子たちがいつも断食しないかを説明しておられます。
①花婿がいっしょにいる今
主イエスと弟子たちの交わりを婚礼の日の喜びのたとえで。
②花婿が取り去られるとき
主イエスが十字架にかかり弟子たちが残されるとき、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむ」(ヨハネ16章20節)。しかし花婿イエスの受難・十字架は弟子たちのためのものです。
[3]一組のたとえ
(1)新しい着物と古い着物(36節)
(2)新しいぶどう酒と古い皮袋(37節)
この一組のたとえで強調されているのは、「新しさ」。主イエスがもたらす新しさは、今までのものによって推し量ることのできないもの。
[4]結び
(1)花婿の取り去られるときとは、主イエスの受難・十字架を指し示すことは明らかです。主イエスの受難・十字架により罪の奴隷、死の束縛から解き放たれ自由なものとされています。ガラテヤ5章1、13節。
(2)主イエスにある「新しさ」
主イエスにある新しさがこの世の生活においても現されていくとき、それは主イエスにある苦しみにあずかる面を持つ(ピリピ1章29節参照)ことを教えられます。しかもそれはなお花婿イエスにある交わりとして喜びが特徴です。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。