ウィリアムズ博士は、人権を考慮するとき、一連の守るべき包括的な事柄をすべての人に要求するよりも、すべての人々に共通の尊厳しなければならないことがあることが人権の考え方の基盤があることの認識を高める方が、人権というかけがえのない権利をより適切に伝えられるのではないかと指摘した。
その上でウィリアムズ博士はオーストラリアの倫理学者サラ・バシュラール氏の人権について鋭い指摘をした論文「産業としての権利(※)」を紹介した。
同論文では、人権の概念を追求していくためには、人類がそれぞれ生きた存在として、ひとりひとりかけがえのない存在として存在しているという認識をもって愛することの可能性を認識する必要があると論じている。
ウィリアムズ博士は、世界人権宣言は画期的な倫理観の発展を促したが、一方で個人の実力者が支配する様な環境下では簡単に読み変えられてしまう危険性があることも指摘した。
世界人権宣言第23条では、勤労生活について「すべての人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有理な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する」と書かれてある。また世界人権宣言第24条では有給休暇を得る権利があることが記されている。第28条にはこれらの権利が口先だけでは終わらないものとするように取り組んでいくことが書かれてある。
ウィリアムズ博士は国際的な社会正義や政治的安定の欠如の問題が、十分に人権の尊厳が守られている人たちにとって切り離してはならない問題であること、世界人権宣言に記された権利のことを話すとき、グローバル化する社会において、最大限に相互理解というものを尊重していかなければならないことを強調した。
一方で経済的に難しい状態にあるとき、人々が自由に職業を選択し、就業することが難しい場合が生じることもある。このような状態にあって、法律はそれぞれの文化において人々が平等に扱われているかを検証し、人々や社会、文化間の相互認識に誤解が生じることのないように努めなければならないと述べた。
また今まさに課題となっている文化的諸問題について、死の病に苦しむ人々の人権をどう適切に扱うかという問題があるが、その根本的な問題は、「良い死に方」どはどのような死に方であるかという問いが残されていると述べた。また性的搾取の犠牲者となった少女に関しては、「人権の濫用」という言葉では的確に伝えきれない禍根が残るものであり、魂が肉体に活力を与えていることを否定し、少女の心に深い傷を与える「(神聖なるからだに対する)冒とく」であると、バシュラール氏が論文の中で言及していることを紹介した。
普遍的人権を現実の世界に広く普及させていくためには、人間の尊厳が何を基盤に存在しているのかを知る必要があるという。宗教的な教義は、人権団体や言論家が「人権」について語る際に説得力のある生きた言葉を与えるという。そのため人権と言う言葉を使うとき、その根が人々の体が「神聖なもの」であるという認識から遠ざかってはならないと述べた。
※Res Publica, the journal of the Centre for Applied Philosophy and Public Ethics in the University of Melbourne, 11.1, 2002, pp.1-5
前ページはこちら