(3)宗教を重視、現世を無視するわけではない
本来、近代公教育の理念には中立性(世俗性)があったが、日本の官の教育はそのあたりが曖昧である。私立学校も広い意味では公教育を担っているが、義務教育段階でみれば無償性に反する。もっとも前述したが小学校段階でも無償性が実現せられるのは明治も33年になった時ではあった。ともかく無償性から考えて、私立の宗教系列の学校は宗教教育それも宗派教育をしてもいっこうに差しつかえないはずだ。しかし、日本の官の教育は私立学校にもかかわらず宗教教育を禁止した。天皇制国家の安寧秩序に抵触し臣民の義務に背く、ということなのだろうか。訓令12号が正式に廃棄されるのは戦後(昭和20年10月)になってからであるが、実質的には、明治学院のように各種学校になってもキリスト教を棄てなかった学校も、数年で徴兵猶予の特権や上級学級への受験資格を回復する。しかしキリスト教学校に与えた影響は甚大で、官の教育の暴挙といってよいだろう。内村の一高不敬事件とならんで近代日本の性格を問う重要な歴史的課題であろう。
天皇は神聖にして侵すべからず、という規定はそれ自体が一種の疑似宗教の役割を果たす。それゆえ、井上哲次郎の教育勅語は「現世的」という指摘は誤りではないか。キリスト教学校を攻撃した側が中立性(世俗性)にもとるのではないか。
奥邃の野の教育は宗教を排除しない。それどころか教育にとって宗教は欠くべからざるものであると位置づける。「野の教育」の存在意義もこの辺りにあるのではなかろうか。
人は教育を要す。教育は宗教を要す。一道也。一根也。基本を二にせず。
相対すれば、宗教は内也。教育は外也(「教訓自読」)。
教育・人間形成における宗教の意義をわれわれは考え直す必要があるのではないだろうか。宗教なくして深い人間形成は可能かどうか。
奥邃にとって教育の目的はまた宗教の目的でもある。前にもふれたように神の救済の業に「程度に応じて」参加すること、そういう人間養成をすることが教育のまた宗教の目的なのだ。
一身は本天下に通じ、一人は本宇宙に連る。一人の心痛めば、宇宙其程度に病む。一人の身沈めば、天下此れに下落す(「家訓補」)。
未だ世界全体が救はれないのに、特に先ず一個又は数人のみが円満に救はれると云う事は必ず有り得べからざる理を知らねばなりません。(「奥