上山氏は高校時代に受洗、大学で機械工学科を専攻、東芝医療機器事業部に勤務しクリスチャンとして放射線CT開発に関わった。その後神学校に入学し牧師となるに至った経歴を有し、2010年3月までは東日本大震災被災地の日本キリスト教会仙台黒松教会で牧師として牧会に携わっていた。上山氏は、同氏の経歴から得た知識を活かしながら、日本で生じた福島原発事故について新約・旧約の複数の聖書の御言葉の箇所と照らし合わせ、神様の御言葉に沿って脱原発の道を歩んでいく必要性があることを強調した。
同氏は原発における核分裂エネルギーの利用とは突き詰めれば、「自然界に存在している原子に、人間が不自然な仕方で無理やり手を加えて不安定な状態にし、それがまた安定な原子に変わろうとする時に出すエネルギーを利用しようとするわざである」と説明した。さらに同氏はローマの信徒への手紙8章の「被造物のうめき」の箇所を引用し、「核分裂のエネルギー利用は神の被造物の一つであるウランが呻く呻き、流す涙を人間がエネルギーとして利用しているようなものに思われて仕方がない。しかも、予期しなかったその時に同時に出す放射線に人間は苦しめられることになっているのである。聖書には、『被造物は、神の子たちが現れるのを切に待ち望んでいます(ローマ8・19)』ともある。人間が他の被造物と共に、神から与えられた状況を感謝しながら享受して生きられる世界を目指すなら、このように不自然な仕方で人間が自然に手を加えて利用しようとするやり方から早く方向転換しなければならないと思う」と聖書的視点に即して脱原発の必要性を説いた。
創世記11章の人間によるバベルの塔のある町の建設の話は、主が人間による計画が成し遂げられないように人々を全地に散らされた話と普通考えられているが、このことについて上山氏は、「このまま人間が気付かずにバベルの塔を建設し続けたら、『人間の予想を超えた』大惨事が生じ、多くの人々が犠牲になっていたかもしれない。神の介入による停止は、人間にとっては決して『神に邪魔をされた』といって怒るような出来事ではなく、人間が神の領域まで入り込もうとする時に伴って起こる、人間には予想できない大きな不幸と悲惨をもたらす事態を、それが起こる前に止めようとして下さった神の恵みの行為として見ることもできよう。原発事故により予期せぬ悪しき副産物が伴い出て苦しめられている現在を、神の恵みの停止の介入の時とするか、あるいは、神の停止を振り払ってさらに前進してもっと大きな悲惨を経験しなければならない時とするか、それは私達の判断に委ねられている」と述べた。
また使徒言行録24章25節には、ローマのユダヤ総督フェリクスに対し、使徒パウロが「正義や節制や来たるべき裁き」について話したところ、フェリクスが恐ろしくなり退席を命じた場面が記されている。人間の限りない欲望、豊かな生活の追求に対して、キリスト者はパウロの言うように「正義を求め、最後の裁きの日の来ることを覚えながら、節制した生き方に取り組んでいくことが求められているのだと思う」と述べ、キリスト者として、「自分の心の中の平安を求めるだけではなく、社会的な問題にも聖書が力を持ち、本当に解決して行く道が示されていることを世の中に対して示して行くことも大切である」と述べた。またエネルギーについて、「地球は開放系ではなくむしろ閉鎖系であり、生み出したエネルギーはどんどん宇宙に捨てられるわけではなく、宇宙と地球の間の微妙な熱のやり取りによってバランスが保たれているのである。豊かな生活を追求するためにエネルギーを生み出していくことにばかり注目されがちであるが、生み出すばかりではなく、どのように捨てるのか、そのことを考えなければ大変なことになる」と述べた。
スリーマイル、チェルノブイリ、東海村臨界事故などの事故は以前から生じており、その度に脱原発の運動が取り組まれて来たがこうなってしまった現実の中で上山氏は、エレミヤ書25章が今回の原発事故と重なって多くの問題を考えさせられたと言う。25章3節には預言者エレミヤが「23年間語り続けたのに」かかわらず、イスラエル民族がエレミヤを通して語られた主のことばを聞かず、「自分の手で造った物をもって、私を怒らせ、災いを招いた(25・7)」ことが書かれている。一方で、東日本大震災による福島原発事故はチェルノブイリ原発事故から25年目に生じた。この事実を先のエレミヤ書の御言葉に対比して、「原爆体験を持つ唯一の国民が原発立国の先頭を走り、諸外国に原発を売り込もうと意気込んでいた矢先に起こった今回の事故。神様の御旨が隠されているのではないか」と問いかけた。エレミヤ書37章2節にはエレミヤによって主のことばが与えられ続けてきたにもかかわらず、「王も家来も国の民も主のことばに聞き従わなかった」ことが書かれてある。このことから、上山氏は「為政者だけでなく、私たち国民一人ひとりにも責任があり、日本は今も放射性核種を世界中にまき散らしている加害者であることを忘れてはならないと思う」と語った。
上山氏は東日本大震災後、エレミヤ書を読む中で「イスラエルにとってのバビロン捕囚」と「日本にとっての福島原発事故」を対比して考えないではおれなかったという。「バビロン捕囚」の体験を通して主の御言葉に耳を傾ける姿勢へと大きく変化したイスラエル民族に対し、日本の私たちが「日本にとっての福島原発事故」の体験で大きく方向を変えられるかどうかが問題だとし、「もしこのまま原発推進の体制が変わらなければ、さらなる深刻な事故が生じ、日本が滅びるかもしれない。それがまた世界への警鐘になるかもしれないが。しかし変わるならば、すなわち、神様と世界の人々に喜ばれるような方向にこの国が向かって行けたなら、(福島原発事故で受けた)苦しみと悲しみは喜びへと変えられていくだろう。神様にも、また天に召された人々にも喜んでもらえる道を選んでいくべきだ」と語った。「命に対する不安」と「電量不足に対する不安」を同じ天秤にかけるようなことはすべきではなく、電力を生み出す他の方法がいくらでもある中で、平常運転しているときも放射性核種を毎日出し続け、被曝する労働者がいて初めて動かせる原発をこれからも使い続けて行くのかと問いかけた。
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上山修平氏 プロフィール
京都大学工学部、東芝勤務を経て、献身。日本キリスト教会神学校を卒業後、日本キリスト教会の牧師となり、昨年4月からは横浜海岸教会の牧師。