西南学院前院長で、神学部教授のL.K.シィート氏は、36年間の永きにわたる西南学院大神学部での宣教師教授の働きを終え、7月31日に帰米する。同大神学部では15日、「バランスの取れた神学をめざして」と題して、シィート教授が最終講義を行った。講義後、教授に日本でのこれまでの生活を振り返ってもらった。
L.K.シィート教授は米国の南部バプテスト神学校(Southern Baptist Theological Seminary)大学院の博士課程でキリスト教組織神学とキリスト教哲学を専攻し、博士論文はキェルケゴールに触れながら逆説の意味に関するものであった。その後、1968年9月に西南学院に赴任し、24年間神学部に勤務した。神学部では組織神学、キリスト教哲学、キリスト教社会倫理の講義をしていた。
いつでも情熱的にかつ興味深い講義を展開してきたシィート氏は、学生たちから良い評判を得ている。シィート氏は海外の受け振りの神学を強く批判し、それが日本人にとってどのような意味があるのかと様々な研究や論文を問題にした。そのため、日本の諸宗教にも強い関心を示し、その関連の研究も用いた。
シィート氏は西南学院を愛し、西南学院を誇りとして部長、宗教局長、院長、理事長という役職を精力的に歴任したが、同時に牧師であること、また、宣教師であることをどれほど忙しくても放棄しなかった。その意味では、最後までキリスト教の教会に仕える宣教師としての使命を全うしたと思われる。一方、その中でも研究者としての自覚、責任を持ち、その責任に挑戦し、多くの業績を上げた。
シィート氏は神学大学院の頃に宣教師として献身することを決心し、日本の神学大学で教えることにビジョンを持ち、神の召命を感じていたところ、当時の米国バプテスト宣教局を通じて日本の西南学院大学からの依頼・要請があったことを聞いて西南で教えるために来日した。
インタビューに当たり、シィート氏は宣教師として来日してからの38年間を振り返っての感想について、永年の間西南学院で教鞭を取らせてもらえたことに感謝を表明した。
— 日本のキリスト教の特徴は
なかなか答えにくい部分ではありますが、正直に言ってみますと、日本滞在の36年間の間、教会が少しずつでも段々成長していくだろうという期待が最初にはあったんです。ところが、思ったほど成長していない側面があるがゆえにちょっとがっかりした部分もあります。なぜ、日本の教会において成長がこのようにいまいち見られてないのでしょうか。それは、今は種を蒔いている期間であるからではないかと思います。成長不振の原因の一つは日本の精神の中の一つである天皇制という価値観にあると思います。すなわち、天皇制の下で日本は他の国とは異なると思う古い価値観があるがゆえに、単にキリスト教は外国の宗教であると思ってしまい、なかなかキリスト教を受け入れないところがあったのだと見なされます。それ以外にも成長不振の原因として、島国の感覚による民族の独自性、先祖崇拝と代表される伝統的な宗教理解等があります。これらの色々な原因があってまだ日本人クリスチャンが少ないという面もありますが、しかし、これからは次第に変わっていくのではないでしょうか。将来、日本において数多くのクリスチャンが輩出されるであろうと期待しております。遅くても僕が死ぬ前に25年間の内には日本においてそのようなリバイバルが起こされるよう祈ります。
— 今の日本におけるキリスト教の問題解決について
日本においてキリスト教は社会全体にまだ外国の宗教であるという観念が残っております。キリスト教は世界の宗教でもあり、また、日本の宗教でもあるというイメージとして変わらなければならないと思います。そういう意味での日本風のキリスト教が必要であると思います。そして、日本の神学は欧米からかなりの影響を受けている部分がありますが、日本特有の状況に合うキリストに基づいた日本の神学が必要であると思います。
— これからの日本のキリスト教が進んで行くべき方向について
クリスチャンでない人々、すなわち一般の人々に対するより深い配慮が必要ではないかと思います。要するに、一般の人々にとってはキリスト教の教会集会などに参加しづらい面があるようですが、より多くの人々が教会に行くことができるように教会が信仰を持っていない人々の立場に立って彼らと対話する姿勢を持つことが必要であると思います。そして、結局、教会の成長を成すためには積極的な伝道がなされるべきであると思います。そのために教会はまるで宗教的クラブのような雰囲気の下で、ただ教会内での交わりを楽しもうというような傾向を取り除き、一般の人々に目を向けて一般の人々も教会集会に気軽に参加できるように外部への方向転換が必要であると思います。
— これからの計画について、アメリカで滞在しながらも日本と関連した活動をする予定はありますか
今後アメリカで「Fed Up with Fundamentalism」(根本主義はもうたくさん)、「Limits of Liberalism」(自由主義の限界)と題して、執筆する予定を持っております。まだこれという特別な計画はありませんが、アメリカ滞在の最初は日本と直接に関連される働きはしないかもしれません。というのは、米国社会と教会に対して考え、当分そのような活動が必要であると思われるからです。ですから、今まで日本滞在の間交わる機会が少なかった分、しばらくは日本の教会とは関連を持たないアメリカの教会と関連した働きをしようと思っています。しかし、依然として日本のキリスト教神学などや西南学院に対する関心は持ち続けてゆきます。遠い未来においては日本に関する活動もしたいと思っています。これから2006年に福岡に再び戻り、丸一ヶ月間、今始まりつつある教会との交わりを持つ計画を持っています。
— 今の世界の神学の動向に対して
一言で断言するのは難しいと思いますが、今日の神学の動向を見ますと、たとえば自由主義と保守主義という風に両極的に分けられている面があります。ですから、実際存在しているものと存在すべきものを区分することがまず難しいのではないかと思います。そういう意味で、今日の最終講義にも発表するテーマである「バランスの取れた神学」のような両極の違いだけに目を取られるのではなく、互いの違いを尊重し合う統合的姿勢を持つ神学がこれからの時代において大きく広がるであろうと思われます。