28日に第一回公開講演会を迎えたキリスト教学校教育懇談会では、東京女子大の湊晶子学長の講演に引き続き、キリスト教系学校4校の代表者をパネリストに迎え、キリスト教学校教育に関する討論フォーラムが行われた。参加した4校は、キリスト教系学校として女子教育をどのようなコンセプトで実施してきたのかについて意見を交わした。
田園調布雙葉学園の杉田紀久子理事長は話の中で、男性優位の傾向にあった歴史の中、男性と女性は同等で価値ある存在であることを証明していくことが女子教育の醍醐味なのかもしれないと語った。共学校で男女が対等に扱われているかについて疑問を感じているという杉田理事長は、同性に囲まれた学校生活の中で、女性である以前に一人の人間であることを児童生徒たちに見つめなおしてもらい、「自分」という存在を組み立てて巣立ってほしいと願っている。高校まで男女共学だった杉田理事長も、カトリック系女子大に進学した際、女子だけの環境に戸惑いを感じたという。しかし、友人や教師との関わりの中で、同性である自分と他者の間にも多くの違いがあることに気づくようになり、そこから学んだことも数多くあったと語った。
女子学院(東京千代田区)の田中弘志学院長は、教員生活38年の全てを女子校に割いてきた女子教育の“大ベテラン”。女子教育の意義について、?生徒の能力を発揮させる機会が豊富である点、?指導教育に確信をもって教え、送り出すことができる点、?生徒がロールモデルを設定しやすく、自己目標の達成に向けて努力する点――― を挙げた。田中学院長は、女子校のほうが生徒の授業内の発言や活動意欲が活発であることを示唆する統計結果に言及し、共学校に性差による固定観念化された期待や役割が根強く残っている一方、女子教育では個としての役割が明確であり、ジェンダーフリーの感覚が発達した可能性があるとの見方を示した。ただ、田中学院長は、女子教育のほうが共学よりも優れているというとは結論付けるべきでないと注意した。統計が男子より女子のほうが成績と能力を強く結びつける傾向があることを示唆する結果を示していることから、就職の際に学力は能力の客観的な指標となるので、それに頼る傾向が女子に強いのではないか、と同学院長は分析している。最後に同学院長は、教育の価値は大学進学実績にあるべきではなく、在学期間の中で経験する多面的な活動が人格形成の上で果たす意味に注目するべきだと強調、中高等教育の6年間で人生の基礎を築く意味でのリベラルアーツ教育と聖書信仰は今後さらに評価されるべきだと結んだ。
聖心女子学院の奥井博子初等科・中高科校長は冒頭で、プロテスタントとカトリックが話し合うこのフォーラムを高く評価すると述べた。フランス革命後に社会改革の一端として始まった女子教育の歴史について触れ、争いの20世紀を振り返りながら、21世紀を平和の時代として築く過程における女子教育の意義を、女性の豊かさや協調性と関連付けた。女子教育は「知性の育成」「魂の育成」「行動力」の3つの柱を信念として成り立っていると述べ、イエスの母マリアの処女性から学ぶ命と人間性を今後も強調していきたいと語った。
捜真学院(横浜市神奈川区)の飯島節子院長は、キリスト教系学校の教育の意義は生徒をキリストの眼差し(まなざし)を持ち、神の愛と許しの「印」を「額に帯びた」人に育てることと述べた。十字架の上で愛と啓示を伝え続けたキリストの姿を知っていれば幼児虐待の親などいるはずがないと強調し、人は愛しあい、許しあうべき存在だということを知るとき、そこから平和が生まれるのだと訴えた。捜真学院の基礎を築いた第2代校長のカンヴァース宣教師の犠牲と努力の姿に真実の母親の姿を見るのだという飯島院長は、家庭に仕え育児に当たることは神からの恵みだということを現代の女性に忘れてほしくないと語る。完成と品格を失いつつある女性に警鐘を鳴らす飯島院長は、男女の違いを自覚し受け入れながら、神ご自身の計画に従って「わたし」の中に蒔かれた種を大切にしていきたいと話した。
来場者のコメントでは「経営としての女子教育に陥らず、自己確認といった女子教育の意義を忘れずにいてほしい」、「教育を自分の人生に生かす過程で、家庭につく女性が戸惑いを感じている」といった声が聞かれた。女性の社会進出や男女平等と離婚率との上昇の関係について質問する声もあり、これに対して、講演した東京女子大の湊晶子学長は、「結婚の意味を理解していないことが原因だと思う。聖書では、神様は互いを助け合うために男と女をお創りになったのだから、助け合いの関係に優劣関係はない。自己形成とは自分を育てることだけでなく、パートナーとの結合を強めていくことでもある」と語り、人びとが神の愛を知る必要性を訴えた。