東京の山谷地区(台東、荒川両区)は、通称ドヤ街(簡易宿泊所の通称、人が快適に暮らせる環境ではないという自嘲的な思いで宿「やど」を逆読みにした呼び名)と呼ばれ、日雇い労働者が多く生活する。街には、生活保護を受けて、一日1000〜3000円ほどの簡易宿泊所に寝泊りしながら暮らす者が多い。
この地区は、上野という交通の中心地ということもあり、各地から流れてくる路上生活者が多い。東京都では地域生活移行支援事業により、路上生活者の社会復帰のためのサポートを行っている。業者に委託して借り上げたアパートを提供するなどして、04〜05年の一年間で1190人の路上生活者の復帰を支援してきた。
また、山谷地域の日雇労働者の生活相談及び生活の援護等を行う「財団法人城北労働福祉センター」では、生活の不安定な生活保護者のための対策を推進しており、仕事の紹介や、健康相談など社会復帰のためのサポートを行っている。
だが生活保護者の中には、住民登録をせず、慣れ親しんだ簡易宿泊所にあえて住み続ける者や、社会保護を受けず、日雇いで簡易宿泊所を転々として暮す者もいる。そこには、帰る「家」を失った者の喪失感がある。
―― そのドヤ街の中に「きぼうのいえ」がある。
立ち上げたのは、聖職者を志していた山本雅基氏 (「山谷・すみだリバーサイド支援機構」代表理事、施設長、カトリック麹町教会員 )。身内を失い、行き場を失い、よりどころの無くなったものが「人生最期の安息の地」として訪れる福祉施設を、と「きぼうのいえ」 ( 山谷・すみだリバーサイド支援機構) を設立した。
きっかけは、マザー・テレサが建てた『ミッショナリーズ・オブ・チャリティー(神の愛の宣教者会)』の働きを知ったこと。山本氏は、マザーが「私は飢えて、裸で、宿無しだったとき、私を助けてくれた」というキリストの御言葉を受けて、カルカッタ (インド) のスラム街に生きる貧しい病気の人や、身寄りの無い人のために建てたという精神に深い感銘を受け、日本でも始めたいと思ったという。
「日本にもミッショナリーズ・オブ・チャリティーはあるがマザーのやられている奉仕の水準からすると、まだそこまでには至っていないと感じられます。私は一信徒にしか過ぎませんが、志を持つ方と共にマザーのやられた『死を待つ人の家』(ミッショナリーズ・オブ・チャリティーが行う働きの 1 つ) を日本でも作ろうと思いはじめました」と経緯を語った。
「ここ日本では身寄りが無い天涯孤独の人が『どこへ行けばいいのか』と悩む。そこに『希望の家』があります」と語る山本氏。開設から4年半が経ち、すでに多くの人々をこの施設に迎えてきた。「ここでは人生の『生きる喜び』『楽しみ』が味わえるのではないかと思います」と、入居者が「生かされる」ことを願い、奔走してきた日々を振り返った。
「きぼうのいえ」の入居者は、路上に倒れていたところ救急車で運ばれ、生活保護を受けるが行き先の無いという人々。病院のメディカルソーシャルワーカーや福祉事務所と相談し、紹介を受けて施設を訪れる。山本氏は、「いま入居者は32名です。これで満員。後ろにもっと多くの方が控えているのを知っています」と、孤独に生きるものがあまりにも多い日本社会の現実を語った。
「きぼうのいえ」を『終の棲家』とする入居者に対して山本氏は「入居しているのは、幸福な人生に恵まれてこなかった人々。どうやって人に愛情を返せばいいのか、どうコミュニケーションをとればいいのかを知らない」と苦難の中を耐え忍んで生きてきた人々の持つこころの深い痛みと悲しみを訴えた。
山本氏は、「こういう人達が私たちを通して愛情を交わすことを知り、『神さまの愛』を感じて、次のステージに向かうことを望んでいます」と語る。「きぼうのいえ」が、神の愛による癒しによって、人々が新たに生まれ変わる場所となることを願っている。
03年11月には礼拝堂が完成した。神の愛を伝えるために月に一度、救世軍清瀬病院からチャプレンを招いている。本来救世軍では行わないが、入居者が描くキリスト教のイメージを生かすために聖餐式を特別に行っている。
避けることのできない「死の向こう側」に不安を感じる人々にとって、「礼拝は素朴な宗教心が芽生える良い機会だと思う」と山本氏は考えている。人の DNA レベルに組み込まれている神に対する『恐れ』が良い形であらわれるのでは、と語った。
「きぼうのいえ」には宗教的な多様性があり、カトリック、聖公会、プロテスタントのスタッフなどがいる。日本聖公会の司祭が施設専属のチャプレンとして入居者の看取りのケアや葬祭を行い、また、時には浄土真宗の僧侶も供養に携わるなど、宗教の垣根を超えて尊い「いのち」に対する想いによって互いに協力し合っている。
現在、生活保護に関わる多くの NPOがあるが、葬儀や遺骨の礼拝堂安置など一人の人生の全てに携わる「きぼうのいえ」の働きは珍しく、行政からの評価も高い。
死を避けるのではなく、ともに死を見つめることを通して豊かな生のあり方を体感する「きぼうのいえ」は、最期を迎える安息の地として、キリスト教の霊性を基盤とし今日も身寄りの無いものに「神による平安」を与え続けている。