1964からおよそ40年間、南米エクアドルHCJB放送局からの短波ラジオ放送「アンデスの声」を通じて、日本の多くの若者やブラジルの日本人移住者の心に、福音とふるさとの香りを届けた尾崎一夫師。今年6月3日から、新しく同局オーストラリア送信所より放送を開始し、8月19日の日本事務所開設(東京・淀橋教会内)にあわせて一時帰国した同師に、メディア伝道の精神について聞いた。
召命をうけ、1963年に電波宣教師として南米エクアドルへと旅立った尾崎師だが、はじめはあまり乗り気ではなかった。当時は日本からの海外宣教師の派遣などまだあまり例がなく、教会からのサポートも十分に受けられないし、現地の状況もよく分からない。無意識のうちに、神の召命に背を向けていた。
しかし、神の御手は、そんな尾崎師の手をしっかりとつかんでいた。ある日、教会の日曜学校でのこと。子どもたちを前に開いた聖書の箇所は、ヨナ書であった。
「ニネベという町に行きなさい」と神からの召命を受けたヨナだったが、彼はそれに背いて別の町へ向かおうとする。しかし、神の御手にしっかりと捕らえられていたヨナは、神の導きによって最後は悔い改め、ニネベで主の御言葉を大胆に伝えた。
子どもたちにこの話を教えながら、自分がヨナであることを誰よりも悟った尾崎師は、その後も様々な主の導きによって、再びすべてを主に捧げようと決心。自らエクアドルへ行くことを申し出た。
1963年6月、信仰を持って日本から飛び立ったはいいものの、教会からのサポートは必要額のたった3分の一しか集まらなかった。経由先のアメリカで6ヶ月間、これといったコンタクトも取れず、あすの宿もわからないまま、ただひたすら主を見上げる日々が続いた。
それでも少しずつだが道がひらけ、支援教会から必要なサポートを受けることができた。派遣先のエクアドルに到着したのは、1964年1月5日のことだった。
念願の現地到着の喜びもつかの間、現地のスペイン語教師を相手に現地語の特訓が始まった。毎日テキストや宿題と格闘しながら3ヶ月、やっと会話ができるようになり、局長からの許可が下りた。こうして1964年5月1日午後5時ちょうど、待望の南米向け日本語放送が始まった。
当初は、太平洋放送協会(PBA)から届く日本語テープを流し、リスナーから届く便りにただ応対すればいいと考えていた。しかし、放送予定日が近づいても尾崎師のもとにはテープが届かない。当時、アンデスの山奥にある放送局には、日本からの荷物は思うように届かなかった。
日本でPBAのスタジオ雑務の経験はあるものの、番組を企画し、自らがそれを担当するのは初めてのこと。尾崎師に緊張が走った。
急きょ企画書を作成し、本番へ。緊張の30分。スタジオの赤ランプが消え、放送が終了すると、プロデューサーからはがっちりとOKのサイン。「ふるさとの香りとこころの糧を届ける」南米エクアドル発の日本語放送はこうしてスタートした。
放送が始まった頃、政情不安の状態にあったブラジルでは、国内での日本語放送に禁止令が出されていた。そのとき、アンデスの峰を越えてくる強力な電波が、 国外から聞こえてくる日本語放送を探していた現地の日本人の短波ラジオにちょうど飛び込んできた。
うわさがうわさを呼び、リスナーからの便りは回を重ねるごとに倍増。33、66、99。「神様が覚えやすい数字でリスナーを増やしてくださった」と尾崎師は嬉しそうに当時を振り返った。
リスナーからの受信レポートはすぐさま100通を超えた。日本向けの放送が翌年から始まると、日本ではおりしも空前の短波ブーム。ここでも神の御手は確かに動いた。
中高生を中心にBCL(ブロード・キャスティング・リスナー:海外放送受信視聴者)は全国に広がり、77年の帰国時に尾崎師は、1000人の中学生らを前に講演。その中から実際に献身し、牧師となったリスナーもいる。教会へ行っている、洗礼を受けた、このような知らせをリスナーから聞くのが「嬉しい」と尾崎師は語る。
尾崎師は、自分の番組を「ミッショナリー・ラジオ」と呼んでいる。ノンクリスチャンにいきなり聖書の御言葉を伝えても、すぐに背を向けてしまう。たとえ聖書を知らない人でも何の抵抗も感じず、しかも興味を持って聞けるようにと配慮した。
教会からは「福音をなぜ直接語らないか」「世俗的だ」という批判もある。しかし、尾崎師は、リスナーとの交流を大切にし、その中で「キリストの証し人」となりたい、と願う。数々の試練を乗り越え、主によって信仰を鍛えられた尾崎師の言葉には重みがある。
「人の心は水のようなもの。つかもうとしたら逃げていく。両手を合わせてそうっと、下から救う」「人の心を大事にしてあげなければいけない」
「言いたいことを言う前に、相手の話しを耳で聞いてあげる。耳で聞いて目でよく見て、話すときは話すべきことを話す」
待つことには忍耐が必要だ。「確かに時間はかかる」「私がどういう人間で、何を願っているのかを常に話しておけば、彼らはそれに答えてくれる」「実際の交わりの中で感じ取ってもらえる」言葉の端々から、伝道に対する情熱が伝わってくる。救霊に対する思いが尾崎師の中にあふれていた。
「ラジオは、相手の心の耳に直接届く」「心に残るメディア」だと尾崎師は確信する。日本滞在中は、日本のリスナーや支援教会を直接訪問し、番組作成のために全国を走り回る。年内にはインターネット放送も本格的に始める予定だ。人と神の和解のために「教会の外で」働く、尾崎師の伝道活動に今後も注目が集まる。