イエス・キリストの復活を祝う復活日(イースター)の8日、首都圏の教会が合同で開催する「第45回東京イースターのつどい」が東京・淀橋教会であり、都内近郊のクリスチャンを中心に約850人が参加した。昨年5月に開催された「第5回首都圏キリスト教大会」で主講師を務めたクリストファー・サン師が講演。「イエスキリストの復活は歴史的な事実として起こった出来事」「復活の主があなたを助けたいと、あなたを救いたいと願っておられます」と語り、十字架に死なれ、3日後に復活されていまも生きて働いておられる主に対する確信と、全能の神による救いの力を大胆に証しした。この日、28人の決心者が招きに応じ、公の場で信仰の決心を表明した。
講演のテーマは「世界の歴史を変えた日」。歴史を通じて、人はいつも『人生の意味とは何か』について考えてきた。人はその回答を人間的な知恵や方法で見つけ出そうとしたが、それでは本当の真理をとらえることはできなかった。また、いくら科学や技術が発達したとしても、人の罪の本質はかわらず、いつかは例外なく死ぬときを迎える。
しかし、十字架につけられ、死んで葬られた主イエスキリストの墓は「から」であった。主が前もって宣言されたとおりである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)。サン師は、「キリストを信じるならば、イエスキリストは、たとえあなたが罪の束縛のなかに生きていた人であっても暗やみから抜け出す力を与えてくださいます」と主の救いの絶対的な力を説いた。
多くの哲学者や作家たちは永遠のいのちがあることを信じなかった。そのためにあまりにも悲観的になり、自殺をした人が多い。「将来の希望はどこにあるのか」「核戦争をやめさせるのはだれだろうか」「この世界に本当の正義と平安を与えてくれるのはいったいだれなのだろうか」――サン師はこれらの質問に対して、「この歴史を通じて、ただイエスキリストのみがこういわれました。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』(ヨハネ14:6)『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』(ヨハネ8:31、32)」「イエスキリストは命です。キリストただ一人が永遠の命を与えることがおできになります」と話し、すべての答えがただ唯一、主イエスキリストであることを伝えた。
聖書はキリストの復活した姿を、亡霊のようなあいまいな姿ではなく、目で耳ではっきりと確かめることができるものとして記してある。イエスは天に昇られるまでの40日の間、11人の弟子に、またあるときは500人以上の会衆を前に姿を現された。サン師は、「イエスキリストの復活は歴史的な事実として起こった出来事」であると強調しながら、それを裏付ける3つの証拠を挙げた。
まず第一に、イエスの味方ではなく敵であったローマ兵が「イエスが死んだ」ことを証言している(ヨハネ19:34)。主は確かに死んで墓に葬られた。
第二に、マグダラのマリアの知らせを聞いて弟子たちはすぐさま墓に行き、墓がからであったことを確認した。弟子はそこにイエスの体を巻いていた亜麻布が置いてあるのを見た。頭を包んでいた覆いは別の離れた場所に丸めてあった。弟子たちはそれを「見て、(主の復活されたことを)信じた」(ヨハネ20:8)。だれかが遺体を盗んだならば、体だけを盗んで服を置いていくことは普通考えにくい。一度ほどいた服をわざわざ丸めることもしなかっただろう。
第三に、キリストの墓はからであったが、誰かが何かの目的で遺体を盗むことなど考えられない状況であった。そもそも、キリストが3日目に復活すると聞いていたファリサイ派の人々は、弟子たちがイエスの遺体を盗んでいかないようにと番兵を置いて墓を守っていた。また番兵、ユダヤ人たちが遺体を盗むことはまず考えられない。遺体がなくなれば自分たちの間でいっそう混乱が生じるからだ。もし万が一盗んでいたとしよう。それならば、イエスの弟子たちが「イエスはよみがえった」と伝道すれば、すかさずその遺体を差し出して弟子たちの主張を否定したはずだ。
弟子たちもイエスの遺体を奪うことはできなかった。弟子たちは、ユダの裏切りによってイエスが捕らえられて以来、ユダヤ人を恐れてずっと身を隠していた。イエスこそメシアだと信じていた弟子たちであったが、イエスご自身からすでに聞いていた十字架と復活について信じることができなかった。
だが、そんな弟子たちが変わった。
弟子たちは復活の主に確かに出会った。イエスを見捨てた過去の姿をすて、弟子たちは自分の命をかけて主のために戦うものとなった。石やむちで打たれ、牢獄に入れられても、「キリストが死からよみがえられた」という確信は少しも揺らぐことがなかった。サン師は、「(キリストの復活が)うそなら、どうして彼らが命を捨てられたでしょうか」と訴えた。
サン師は、「この歴史的事実を受け入れるなら、イエスの復活も歴史的事実として受け入れなければなりません」「だれもこの事実を否定できません」と語った。
続いてサン師は、この復活が具体的に「自分」とどのように関係しているのかを説いた。
まず第一に、キリストの復活によって、「私」がまったく新しい人に作り変えられる。人はその罪の故に神から遠くはなれたものとなってしまった。しかし、イエスキリストが死からよみがえり、死をも征服されたことで、キリストを信じる者は永遠の命を得ることができるようになった。キリストが再びこの世にこられるとき、信じる者はキリストと共によみがえる。キリストがよみがえられたのと同じように栄光の体でよみがえる。サン師は、「あなたは死んだあとの命について考えたことがあるでしょうか」と問いかけ、「イエス様は言われました。『たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか』(ルカ9:25)。新しい人となるために主の前に出ましょう」と信仰の決心を強く呼びかけた。
第二に、復活され、今も生きておられる主はいつも「私」のためにとりなしの祈りをされている。主は一人ひとりのささげる祈りをすべて聴かれている。サン師は、「キリストを信じるなら、イエスキリストは神の右の座に着いて、あなたのためにこのように宣言されます。『その人はわたしが十字架で流した血潮によってすでにきよめられているのです』と」そして「きょうこのとき、主はあなたを清めることができます。赦してくださいます。あなたは永遠の命を持つものとなるのです」と訴えた。
第三に、主は信じる者に復活の力を与えられる。キリストは復活されて天に昇られる前に、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)と宣言された。サン師は、「もしキリストを信じるなら、あなたの上にイエスキリストの権威と力が注がれるのです」「イエスキリストはあなたにこの復活の力を与えたいと願っておられるのです」と語った。
サン師は、「イエス様ははっきりといわれます。『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』(ヨハネ14:12)復活の主があなたを助けたい、あなたを救いたいと願っておられるのです」と様々な逆境にあって悩み苦しむ人々にこそ、主の復活の力が臨むことを伝えた。
第四に、キリストは「私」と永遠に共に歩まれる。たとえ暗やみを歩くことがあってもともに歩まれる。永遠の友になってくださる。主は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束された。サン師は、「クリスチャンにとって肉体の死は終わりではありません。これは神の国の新しい始まりであります」と信じる者に永遠の希望があることを伝えた。
第五に、主はもう一度こられる。聖書は終わりのときに、主が王の王、主の主としてこられ、この地に神の国が来ることを預言している。御使いは弟子たちに、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と伝えた。
サン師は、「最後の裁きを避ける人はいません。聖書は初めから終わりまで、いつも神の最後の裁きの警告を述べている」「キリストはこの世を裁くためにもう一度こられます」「盗人がやってくるように、主の日はくる」(1テサ5:2)と語り、最後の裁きは必ず訪れ、それはいつでも起こりうることであると警告した。
そのうえでサン師は、「『今や、恵みの時、今こそ、救いの日』(2コリ6:2)。いま、キリストのもとに。待たないでいま、参りましょう」と会衆に呼びかけた。講師の招きに応じ、新しく信仰の決心をしたもの、信仰を新たにしたもの、主に献身の思いが与えられたものなど、あわせて28人の決心者が講壇の前に進み出て、講師とともに決心の祈りをささげた。