聖書の箴言に「主を畏れることは知恵の始め(箴言1:7)」とあるように、神の前に謙遜であることは何事においても最も基本的で大切な知恵だ。神の前に謙遜であることは、預言者サムエルのサウル王への警告、「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる(サムエル上15:22)」で指摘されているように、「聞く信仰」を持つことだと言える。
「聞く信仰」の対極にあるのは、「見る信仰」だ。見るという行為は、見る側が主体となって見られる側は対象となる。つまり「見る信仰」とは、自分が主体となって神を対象として見る信仰のことだ。反面、「聞く信仰」とは、神を主体とし、自分が客体となって聞き従う信仰のことだと言える。
近年、盛んに研究され普及している教会成長や弟子教育のストラテジーにおいても、「見る信仰から聞く信仰へ移行」が重要なテーマの一つだと言われている。聖書に登場する回心した人物の物語は、現代人を伝道する上で有意義なモデルとなるが、特に収税人ザアカイの物語(ルカ19:1〜10)は、「見る信仰」から「聞く信仰」へのプロセスを我々に見事に伝えている。
金持ちでありながら、イエスを一目でも見ようとするザアカイは、ある程度の世俗的な地位と豊かさを持つようになっても、孤独と心の虚しさから救いとなる「何か」を追い求める現代人の実存的な姿と重なる。また、背が低く、群衆に遮られ見ることができない状況は、その「何か」について興味があっても、運命的な障害や自虐的な罪責感や恥ずかしさなどから教会などへは行けない大多数の人々が持つもどかしさに似ている。
ザアカイのように信仰を持たない人であっても、すでにイエスに出会える心の準備ができている人々が実際に多くいることを忘れてはならない。宣教において、教会または宣教師の役割は、まず第一に、ザアカイのようにイエスを見ようとする者のためにいちじく桑の木のような存在になることではないだろうか。
ルカの描いた、いちじく桑の木に登ってイエスを見下ろすザアカイは信仰の初歩的な姿を連想させる。信仰の初期には、「見る信仰」が大きなきっかけとなるが、それで終わりではない。主は「見る信仰」からより深い世界へと我々を招待してくださる。イエスは見ているだけのザアカイを見上げて言われる。
「急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(ルカ19:5)」
これはザアカイ一人だけでなく、イエスを見ようと教会へ来たクリスチャン全てに同様に適用されるメッセージだ。急いで降りてきて主を迎え入れたザアカイはイエスと一対一の人格的な出会いを果たすことができた。それだけでなく、イエスに聴き従ったザアカイの人生に根本的な変化が訪れた。木の上で見ていた状態から、降りてきて主の言葉に耳を傾ける状態へ、更に主とともに生きるようになった。
「見る信仰」は自分が見て判断する限りイエスの生への参加が無い。顔と顔とを向け合って対話することを望まれるイエスは、我々を人格的な出会いの場へと招待してくださる。心を開いて主を迎え入れる段階へ進むときに、自然と信仰の情熱と十字架と復活に預かる生への参加が生まれる。教会成長の鍵は、信徒の「見る信仰」から「聞く信仰」への移行の成敗にかかっている。
したがって教会での聞く訓練、つまり神を見よう、真理を見ようとする姿勢から、神のメッセージを聞き、神が望むことに従おうとする姿勢に移行するための訓練が必要ではないだろうか。特に、テレビやインターネットなどで見ることに慣れて暮らしている現代の若者にとって聞く訓練は切実に必要だ。
目に見える現象だけを判断の基準にするなら、誰でも簡単に信仰生活を諦めるだろう。目に見える現実を超えて主が与えてくださったビジョンを夢見て希望を捨てないことは、見えない事実を確信する(ヘブライ11:1)信仰があって初めて可能ではないだろうか。そして、その信仰は見ることから脱却し、聞くときに始まると聖書は我々に教えている。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)」