11月17日の第三主の日、収穫感謝祭が祝われる。いわゆるサンクスギビング・デーのためであるが、この日は我々にとって、単なる記念日として傍観していてはならない、キリスト者たる者の信仰を後世に語り継げる歴史的重要遺産である。北米大陸での感謝祭が今日私たちに投げかける大切なメッセージは何なのか。この答えを探るためには、清教徒(ピルグリム)たちの信仰の本質を深く考察してみる必要がある。新大陸で守った感謝祭は彼らの信仰が生んだ一つの所産だからだ。
クリスチャンの中にも、清教徒たちの信仰など時代遅れの冒険心だなどといった、狭量な心でしか物事を見られない人もいるだろう。霊蹟や道徳的純潔を重んじ、度が外れるほどの禁慾主義を立てる、このようなある意味カルトじみた人々を卑下して皮肉ったりもしているかもしれない。しかしこのような見解しか持てない者は、清教徒の中にある信仰の本質を見いだすことができず、すべてのものを物質的、肉的な目と世俗的定規でしか評価することのできない浅薄な“自称”クリスチャンたちなのであろう。清教徒たちの厳格な道徳と、定例行事の絶対厳守、家庭の大切さの強調、享楽の制限を主唱した宣布は、当時の形式主義にかぶれて変質しつつある信仰の本質を守ってくれる塩のようなものであった。これはすなわち、便宜主義的信仰や情欲、世俗の時流に飲み込まれて光も発することができず、出すべき味も出すことのできない塩になってしまった今日のクリスチャンたちが今一度立ち返って受け継いでいかなければならない、最小限かつ本質的な信仰のこの世への遺産なのである。
また清教徒たちは、むしろローマカトリック的な制度・意識(儀式)の一体を排斥して、命をかけて神様の御言葉のみを携えて歩まんとする、聖書中心のカルヴィン的思想を主唱して改革運動をした改革主義者たちであった。彼らは信仰の自由のために、引き返すことの許されない旅路を覚悟して未知の地に向けて進むほど、挑戦的で進取的であった。宗教的自由とアイデンティティを捜し求めて新大陸に渡って来たため、「自由」の概念をなによりも大事にし、新大陸で全てを新たに始めるという心で、全ての者が自ら掘り起こして作り出したから、人間の平等を強調した。
ひいては、特定の教派のみを強要しないで多様な宗教感を認めた清教徒たちの柔軟性は、アメリカという多民族国家がこれまで大きな紛争もなしに歩むことのできた、今日のアメリカ文化の多様性と複合性の中に見られる調和性を形成する重要な役割を担った。何より新大陸開拓初期清教徒たちが見せてくれた信仰の姿はこれら水準の高い彼らの霊性を見せてくれる。
1620年、聖書の御言葉の内にあって敬虔に暮そうとする清教徒たちは、形式主義的信仰に染まり果てたイギリスとの信仰上の葛藤のさなか、信仰の自由を求めて新大陸に発った。180トン程度の小さな船には102人の人々が乗り込んだ。ごくありふれた帆船に過ぎないメイフラワー号だったが、その小さな箱舟は大きな夢と希望に満ちていた。
しかし65日間の長い航海を終えて新大陸に初足を踏み出した彼らを待っていたのは乳と蜂蜜のあふれる地ではなかった。東海岸の寒く厳しい冬は容赦なく彼らを苦しめた。ひどい食糧難と寒さ、激しい気候の変化と栄養失調のために、その冬のうちに102人のうち 44人が命を落とし、生き残った人々も風土病に苦しんだ。最終的には3世帯を除いてすべての清教徒が病気にかかり、そして命を落とした。その年インディアンたちの助けで収めることのできた初収獲の結実も、実際は決して素晴らしいものではなかった。
このように信仰の自由を求めて去った人々が直面した現実は、大切な家族の死としがない結実だった。しかし清教徒たちは一年の間神様がくださった恩恵とインディアンたちの助けに感謝しようと、初所産で収穫祭を守ったのだ。これはまさに苦難の中でも神様を賛美して唇で罪を犯さないヨブの信仰、主なる神様だけに感謝し栄光を帰す信仰であった。もし清教徒たちが新大陸に到着してぶつかった苦難の中にあって神様を呪い信仰を捨てていたら、信仰の国家アメリカはあることができなかったはずだ。今のアメリカが歩んでいる衰落の道というのも、受け継がなければならない先祖たちの信仰を忘れてしまった故であると言っても言い過ぎではあるまい。
今年の感謝祭を迎えるに当たり、この清教徒たちの信仰に、日本の教会も一度注意を払う必要がある。 そしてその歴史の裏にある清教徒たちの深い信仰の世界を覚え、自分自身の信仰について問い掛けるべきである。
使徒パウロはこう教えた、“神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。”(Iテモテ4:4)“すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。”(Iテサ 5:18) そして堕落した人類の最大の罪を、“なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。”(ロマ1:21)と指摘している。この2003年感謝祭、打ちひしがれ命を落としながらも、苦痛と悲しみの中に溢れた新大陸の清教徒たちの感謝の理由を捜してみることは、私たちに残された大事な宿題に違いない。