ウェスレアンホーリネス教団は14日、同教団として初めての全国青年大会を同教団淀橋教会(東京・新宿区)で開催。教団に所属する全国の教会から、およそ150人の若者が集った。14日から4日間の日程で行われる。
大会テーマは「星のように輝こう!」。第1日目午後7時から開かれた「チャレンジナイト」では、辛島道也牧師(大分シャローム日田キリスト教会)がマルコによる福音書10:13〜31から、「人が輝いて生きる」ことの意味を説いた。
本文では、ただ「イエスに触れていただくために」、子どもたちがイエスのもとに近寄ってきたとある。イエスはこの子どもたちを近くに呼び寄せながら、「神の国はこのような者たちのものである」と語る。
辛島師は若者たちに、「何を求めてこの大会に参加したのか」と問いかけた。そして、人の輝きとは、本文にある子どもたちのように、ただ「イエスに触れていただきたい」という純粋な思いを持つ者に与えられる、と説いた。「(大会に参加する)あの人がどうの、こうのではない」「他人に触れられたくない心の深いところを、イエスに触れていただく」思いで大会期間を過ごしてほしいと語った。
また本文には、イエスとある金持ちの男との対話が記録されている。男はイエスに、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいでしょうか」と問いかける。イエスが律法の戒めを語られると、男は、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と語った。
すると、イエスは、彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」すると、男は悲しみながらイエスの前を立ち去った。
何かを求める人は普通、自分に、また自分の生活に何かを加えることを想像する。しかし、辛島師は、人生の本当の輝きとは、何かを「得ること」によってではなく、自分が持つものを「捨てること」によって与えられると説いた。
自分を真に輝かせるのは、自分でも他人でもなく神である。だが、人はしばしば、自分が作り出した「自分を輝かせるもの」を手放すことができない。都会の真夜中を照らすネオンの輝きが、空にある星の美しい輝きを見えなくさせているのと同じような状況が、「私たちを輝かせる主イエス」と自分との間にもあるのではないか。「すべてを捨てて、イエスに向かいたい」と会衆に迫った。
最後に辛島師は、本文27節「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」から、自身の証しを通して、「できない現実」に落胆するのではなく、それを認め、「神にはできる」という淡白な信仰を持つべきことを説いた。
辛島師には、障害を持った一人の息子がいた。辛島師はその現実を受容できず、「わが子」をさえ受け入れることができないでいた。
ある日、息子を病院に連れて行く途中、腕に抱く「わが子」が自分の方を向いて、笑った。傷害で体のあちこちが痛く、苦しいはずなのに、たしかに「わが子」は自分の顔をみて笑っていた。そのとき、辛島師は、自分が受け入れる側の人間ではなく、自分こそこの家庭に「受け入れられ、愛され、赦される側」の人間であることを悟った。神との関係においても同じであった。
「できない現実」を見るとき、人は落胆する。それで人は、自分の弱さ、足りなさ、限界を人に隠そうとする。
しかし、聖書にはこうある。「神にはできる!」辛島師は、「自分の作った飾りを脱ぎ捨て、『神にはできる』これを信じようではありませんか」「落胆するのではなく、すべてを神に明らかにしていこう」と若者たちに呼びかけた。
集会後はグループタイムの時間が持たれ、参加者は全員10人ほどのグループに分かれ、集会で受けた恵みを共に分かち合った。