カナダの神学校リージェントカレッジの初代学長で「霊性の神学」提唱者のジェームス・フーストン師が2日、上野の森キリスト教会(東京台東区、重田稔仁牧師)で「心の井戸を掘る―ポストモダンの行き着く先を見据えた牧会を目指して」をテーマに公開講演会を開催した。フーストン師は講義を終え、参加者らの質疑応答に答えた。同講演会には東京近郊の教会を中心に信徒や教職者など約50人が参加した。
以下は参加者らからの質問とそれに対するフーストン師の解答である。
フーストン師はエキュメニカルの働きにどのように関わっているのでしょうか。
「エキュメニカル」運動には2種類あると思います。一つは政治的・組織的なもの、そしてもう一つはキリストにあってのこころとこころのエキュメニズムです。WCC(世界教会協議会)は組織的なエキュメニカル運動を推進しようとしていますが、人格的なつながり、すなわちこころとこころのエキュメニズムが必要です。それはカトリック、プロテスタントなど教団・教派に関係なく経験することができます。自分の教派(教団)にのみ固執しようとするならば井戸を深く掘り下げることは出来ません。
技術中心主義を止めるとは、技術そのものまでも全て排除しろということでしょうか。
今までにこのような質問はよく聞いてきました。私はいつも理性について語るときに、「理性を捨てるのではなく理性を超えたものを大切にしてください」と話します。また技術についても、「全ての技術に反対なのではなく、技術を超えたものを大切にしてください」と話します。
つまり、私は技術至上主義が生み出す「幻想的」なものに反対するのであって、その技術が生み出した道具(インターネットなど)を排除しなさいということではありません。技術が生み出す「幻想」とは、その技術が私たちに大きな力と能力を与えているかのように思わせることです。しかし実際は技術の「奴隷」にされていることが多いです。技術に支配されてはいけません。
ですからその「技術」という力をどのように使うか、またどのように支配するべきかが重要です。神様は人間にこの地を従わせる力を与えられました。つまり、私たちに与えられた知性や理性、技術や道具を私たち人間はどれだけ忠実な管理者として用いているかということです。
人間が生み出した数多くの技術や道具があります。パソコン、携帯電話、インターネット・・・それを神さまの愛を宣べ伝えるためにどのように用いるかを考えるべきです。そのように考えないならばただ道具の奴隷になってしまいます。
個々の井戸掘りはどのように集団的な働きになっていくのでしょうか。
いつも忘れてはいけないことは、クリスチャンとは「私」という一人称ではなく、常に「私たち」という複数で呼ばれるものであるということです。なぜならクリスチャンの側には必ず主イエスキリストがいます。そしてもう一人、自分の隣人、つまり信仰の友、兄弟姉妹たちがいます。ユダヤ人たちも神と隣人を愛することが最も大切であると話しました。
この認識がポストモダン時代の風潮に対抗するものなのです。個ではなく、あらゆる聖徒との交わりがクリスチャンの中にはあります。このようにキリスト教界の中で守られてきた伝統とその歴史を意識する必要があります。これは技術至上主義に対抗する認識です。時代の信仰者たちを無視してはいけません。このポストモダンの社会においては歴史的な認識を持つことが必要なのです。