「クリスチャンホームスクーリング」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ホームスクーリングとは、「子どもの教育を他人任せにせず、家庭をベースに、親が責任をもって指導する」学習形態を指す。このホームスクーリングをクリスチャン信仰の実践に適応し、「クリスチャンホームスクーリング」と呼んでその定着と促進を目指すのは、全国クリスチャンホームスクール支援センター(アージック、AHSIC=Associationof HomeSchoolers in Christ)の代表を務める吉井春人師(東京・日野バイブルチャーチ主任牧師)。吉井師は、3人の子どもたちをホームスクーリングで育てたほか、ホームスクールをおこなう家族が互いに励ましあい、祈りあう必要を覚え、01年に「東京ホームスクーリング祈祷会」を開始。その後05年4月には、全国各地でホームスクーリングをおこなうクリスチャンホームのために、地域の小規模ネットワークを生み出す支援活動をおこなう団体として、現アージックの活動が始まった。
アージックが活動理念として掲げているのは、大きく分けると、「キリスト中心の教育」、「親による指導と教育」、「国家による教育統制からの自由」の3点。今回はその一つひとつについて詳しくみていきたい。
1. キリスト中心の教育
クリスチャンホームスクーリングの祝福は、その活動がキリストを中心として展開されるがゆえにある。しかし日本で「ホームスクーリング」という場合、学級崩壊・いじめ・自殺などにより学校教育が退廃し、親が学校教育への希望を失い、子どもが不登校になった結果の打開策として推奨されてきた傾向がある。
けれども、このように「緊急事態の回避」からホームスクーリングに接続された場合、学校や近所など周囲からその説明責任を求められることは必死だ。そのため、子どもたちも親たちも数々の面で肩身の狭い思いをしてしまうことが多かった。だからこそ、ホームスクーラーたちはもっと積極的に在宅状態を受け入れるための基礎の上に立つ必要があるだろう。そのための手段として、聖書が提唱されるべきだ。つまり、聖書をベースにして「学校教育」というものを明確に捕らえなおすことが必要になってくる。
第一に、聖書には「子どもは家庭をベースに育つ」ということが示されているからだ。「私と、私の家は主に仕える」というヨシュアの言葉に代表されるように、聖書によると、子どもの養育について家庭に対して示された役割は明確だ。
2番目に、キリスト教信仰においては偶像との完全な決別が要求されているからだ。曖昧な信仰は赦されていない。つまり、非キリスト教に基づく教育と聖書の世界観や人生観に基づく教育の間において、どっちつかずの中間地帯などというものは存在しないということだ。聖書をベースにし、毅然とした態度で学校教育を否定する必要がある。というのも、「キリスト中心の教育の中に学校信仰を紛れ込ませたまま」、言い換えると「家庭とは何かについての再検討をしないまま」、形式だけの「擬似ホームスクーリング」を始めてしまう危険性があるからだ。もし、学校信仰との内面的確執が隠され続けた状態でホームスクーリングを続けるならば、それは結局、ホームスクーリングの価値を見失ってしまうことになりかねない。そうなれば結果として、耐震強度を偽造されたビルディングが地震で崩壊するように、バーンアウト(破綻)してしまうことになるだろう。
3番目に、ホームスクーリングに移行した子どもたちには「心の癒し」が必要だ。なぜなら、このような子どもたちは、概して学校教育と学校文化(競争主義・点数主義・仲間によるいじめ等)から深い心の傷を受けたままの状態にあるからだ。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と主が話されたように、主イエスは安息と安らぎを与えてくださる。ホームスクーリングをはじめた子どもに必要なのは、形だけのスクーリングでも、教科書でも、同年代程度の学力でもない。ただ主キリストにある休息なのである。
このように考えた場合、キリスト教信仰が「ホームスクーリング」の実践において果たす役割と効果は明確だ。さらにクリスチャンホームスクーリングにおいて注意すべき点をいくつかあげておく。
クリスチャンにとっての教師は主ただ一人であることを、クリスチャンホームスクーラーたちは認識するべきだ。キリストの主権性を自覚したうえで、どう生きるか(社会性)、どう学ぶか(学問)について再検討しなければならない。しかし、だからといって誤解してはいけない。「キリストの権威を受け入れる」ということは「主だけに従う」ということではなく、「キリストを恐れ尊んで、互いに従う」(エペソ人への手紙5:21)ことであり、主を中心として互いに尊敬しあい、仕えあい、受け入れあうことを意味している。だからこそ、キリストの権威を受け入れるゆえに、学校の教師を含めて世の全ての権威に対して敬意をあらわすべきなのである。
クリスチャンにとって本当の教科書はただ聖書のみである。しかし、だからといってまた誤解してはならない。「聖書だけが正しいから他の書物や学校の教科書を読んではいけない」ということではない。まずは聖書の権威を教え、御言葉によって魂が養われなければならないということだ。聖書の権威を受け入れた後で、他の書物や教科書を読むことは問題ない。むしろ、聖書の権威のもとでいろいろな教科書の権威を受け入れるべきだ。しかし、キリストの主権性が正しく教育に反映されないことが学校教育の最も深刻な問題だ。学校から生み出された文化は、知識と信仰の分離ばかりではなく、教科学習によって知識が分断されている。けれどもクリスチャンホームスクーリングでは、キリストの権威のもとにあってばらばらに分断された知識と信仰を結び付け、信仰と生活と知識を融合して再構築することを目指している。
2. 親による指導と教育
ホームスクーリングに懐疑的な人の意見のなかに、「はたして親に、今の学校が教えているような多彩なカリキュラムがこなせるでしょうか」という声をよく耳にする。しかし、子どものために最も熱心なのは主だ。それは親に教育の責任がないという意味ではなく、「自分が子どもとどのように向き合うべきか」ということよりも、まず「主が家族や子どもにたいしてどのような意志をもっているのか」を理解し、その意志に従う信仰の態度が親には求められているということだ。尊いご計画のうちに主が子どもを育ててくださる。主の意志に従って、家族に役割が与えられ、教会に役割が与えられている。すると、ホームスクーリングにおいては家庭を学校にかわる居場所とみなすというより、「主のご意志にかなうように家庭を再構築する」という目標が自然に見えてくるだろう。
主は弟子たちと生活をともにされた。主は弟子たちとともに飲食し、ともに賛美した。共同生活をしながら、主の生き方全体を通じて模範を示した。言うまでもなく、ホームスクーリングこそ、主と弟子たちが過ごしたかたちに最も近いといえるだろう。だから、ホームスクーリングにおいて最初に問われるのは「親」の責任である。つまり、親の生活全体が直接子どもに影響を与えるということだ。親の言動、態度、行動、性格、信仰など、その生そのものが子どもの成長にとって重要な要素になってくる。だからこそ、親として模範を示せるように、まずは徹底的に主の前にへりくだって謙遜に祈り始めなければならない。これがホームスクーリングを始めるための入り口だといえる。子どもを育てる責任は主から与えられたものであり、そもそも行政や他人が責任を持つものではない。教育の第一責任者は親である。それは主が与えた使命である。
3. 国家による教育統制からの自由
ホームスクーリングでの教育は自由であることが特色。しかし、もちろん自由だからといって何をしてもいいというわけではない。自由には責任が伴う。クリスチャンとして、「主が与えてくださる自由には、主から与えられる責任が伴う」ことを忘れてはいけない。また、クリスチャンホームスクーリングでは、「思想・信条の自由」「良心の自由」がしっかりと確立されるべきだ。個人の尊厳が重んじられるべきであって、それを無視した教育がなされるべきではない。国家にふさわしい人材の育成を目指している安倍内閣の教育基本法の改正には断固反対するべきだ。ホームスクーリングは、国家の干渉と介入を受けてはならない。そこでは主にあっての真の「自由」が保証されていなければならない。