そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。・・・それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。・・・身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:1〜7)
今日の聖書は、今から二千年前、ローマ帝国が地中海世界を中心とした全世界を支配していた時の出来事です。皇帝アウグストの時代で、シリヤの総督にクレニオという人物が任命されていた頃であった、とあります。聖書は、救い主イエス・キリストが実在の人物であり、キリストの誕生は歴史の中で起こった事実であると明確に語ります。今、世の中に、人の心を温かくしてくれるファンタジーが溢れているからと言って、イエス・キリストの物語まで、そのような夢物語としてはなりません。
イエスは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。ちょうどその地域に、人口調査をせよという命令が発せられ、人々は親族の本家のある場所へ帰って行かなければならなかったのですが、イエスの命をすでに身ごもっていたマリヤは、婚約者のヨセフと共に、ヨセフの本家のあるベツレヘムへと旅をし、その滞在の途中に月が満ち、男の子を産んだのです。その子が神から遣わされた、後にこの世を救う働きを始められたメシアであると聖書は語ります。このキリストの誕生の箇所から、二つのことをはっきりと心に刻みつけたいのです。
1.歴史の中に、人として誕生された救い主イエス
当てにしても本当は救うことができない空想の中の人物とは違い、イエス・キリストは、ある日ある時、私たちが住む時間と空間の支配するこの世界の中に、人として現われて下さった救い主だということを知ってほしいのです。
では、なぜ、キリストが救い主として歴史の中に誕生されなければならなかったのでしょうか。私たちは夫婦関係や親子関係、金銭のことなどで悩み、仕事のことを考えるとため息がこぼれ、健康診断を受ければ、どんな診断結果が出るんだろうと心が重くなる―私たちが抱えている人としての悩みや不安も、リアルなものではありませんか。時々、病気で落ち込んでいる私たちを、誰かが、「しっかりするんだよ。必ず元気になるからね」と慰めてくれても、「そんな言葉じゃ、どうしようもない。あなたには私の痛みはわからないでしょ。だって、あなたは元気なんだもの」と思わずつぶやいてしまうようなこともあるのです。ですから、神が私たちに本当の救いをもたらそうとする時も、その救い―神からの幸せ、喜び、感謝、生き甲斐というものは、必ずリアルな姿を取らなければなりませんでした。神の愛を、私たちからかけ離れた縁遠いところにある清い世界で終わらせるのでなく、神ご自身が人となってこの世界に飛び込んで下さり、私たち人間としっかりと向き合って下さるためでした。
2.人との関わりの中に、誕生された救い主イエス
イエス・キリストは、ただ一人山の中で生活し、いきなり完成した救い主として圧倒的な御力で御業を行なわれたのではなく、マリヤを通し、ヨセフの家庭に生まれて下さいました。命の最初の瞬間から、人との関わりの中に生まれて下さったのです。
昔も今も、神は生きて働かれていますが、神の恵みは、その働きを受け止める私たちの心が、神に向かって開かれてこそ、本物になります。そもそも、神が人間に命を与えて下さったのは、神と向き合い、神との交わりの中で神の語りかけをいただくためでした。しかし、人の心が歪んでしまい、神の声を聞けない罪深い心になった時、自分の力では救われない人間を、命の与え主である神の側から救おうと、救い主をこの世に送り込まれたのです。神は、あなたの人生に深く関わって下さり、あなたを救い、助け、導き、祝福して下さるのです。
イエスが産み落とされた飼い葉おけは、動物のえさ箱で、汚いものです。汚くて粗末な家畜小屋、それは、私たちの社会の象徴でもあるでしょう。一見豊かそうに見えても、幸せが見えず、日本では、今年も三万人を超える人が自ら命を絶ち、あちこちで無差別に人を傷付ける人がいます。すぐ弱音を吐き、自分に都合の悪い人は、いなくなればいい、死んでしまえばいい、とまで思ってしまう。そんなすさんだ、汚い私たちの心は、飼い葉おけそのものです。でも、そこにキリストは宿って下さいます。立派なお部屋はイエスのために用意できないかもしれない、でも、少なくとも、どんなに汚くても、私たちの心の飼い葉おけにキリストをお迎えすることを忘れてはいけないのです。罪を悔い改め、イエスによって生かされる命を精一杯、神の愛をもって生きていこうではありませんか。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。