1.事例
私たちが問題に直面した時になすべきことは、問題を「思考」によって解決しようとしないで、「信仰」によって解決しようとすることです。神を信じない人は、問題を「思考」によって解決しようとします。しかし、神を信じるクリスチャンは、問題を「信仰」によって解決しようとすべきです。
「思考」は物事を分析したり、評価したり、理由を付けたりする力です。しかし、物事の分析方法、評価の仕方、理由付けは、人によって千差万別になされます。それらは相対的なものであって、絶対的なものではありません。ですから「思考」によって問題を解決しようとすると、往々にして「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」のジレンマに陥ってしまうのです。
これに対して、「信仰」によって問題を神に解決していただこうとするなら、まことに単純明快です。なぜなら、神の解決は絶対に正しいからです。「信仰」による解決は、必ず「イエスかノー」の神の結論が先にきます。「思考」は、信仰によって得られた神の結論が正しいことを、後から理由付けることができるに過ぎません。神が正しい結論を出されたからには、自分がどう思うか、人がどう考えるかということは、もはや重要ではなくなります。
主の御旨がなるならば、忠がならなくても、孝がならなくてもよいのです。いや、主の御旨がなることこそが、真の意味で(長い目で見て)忠もなり、孝もなるのです。ですから、神の結論に安じていられます。
「思考」は、マインド(頭)すなわち魂の次元の事柄を扱います。「信仰」は、スピリット(心)すなわち霊の次元の事柄を扱います。神は霊なるお方ですから、私たちが神と交わり、神から導きをいただくためには、聖書の御言葉を疑わないで心から信じる「信仰」によらなくてはなりません。
ですから、問題の正しい解決のプロセスは、まず「信仰」によって神から正しい結論をいただいて、次に「思考」によってそれを理由付けて納得し、最後に「実行」によって現実の神の解決を体験することです。このように、「信仰」→「思考」→「実行」のプロセスを正しく踏むようにすると、神による問題のすばらしい解決を見ることができるようになります。
イエス・キリストは死んだラザロを生き返らせる前にマルタに言われました。「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ11:40)。死人を生き返らせることは、「思考」によれば不可能なことです。けれども「信仰」によれば、それは可能なことなのです。なぜなら、全能の神にできないことは何もないからです。これは、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」(箴言3:5)ということです。
ある依頼者が外国で事業をしていたのですが、知らない間に詐欺罪で訴えられ、本人欠席のまま懲役3年の有罪判決が確定してしまいました。本人は無罪を確信していました。日本ではすでに確定した有罪判決を再審で覆すことは、非常に難しいことです。その国は日本以上に官僚的な国ですから、それはもっと困難なことです。日本では「疑わしきは罰せず」と言いまして、有罪の決め手となる明確な証拠がなければ無罪となるのですが、その国では逆に「疑わしきは罰する」と言いまして、被告人が無罪を証明しなければ有罪にされてしまうのです。
私はこの事件の解決を依頼された時に迷いました。常識的には全く無理だと思われたからです。しかし、主に祈っていくうちに、「真実が必ず勝つ」という信仰が与えられました。次に、神はどんな難事件も解決できるはずだと思いました。そこで、「信仰」によって事件を受任し、有罪判決を覆がえすために、依頼者と一緒にその国へ行くことになったのです。私はその国の言葉は話せませんし、その国の法律も全く知りません。そこで、その国に到着して、現地の弁護士に弁護を頼んで、一緒に法廷に出ることになりました。
検事側は私の依頼者に非常に不利な証拠や証人を十分に準備していました。私は弁護士としてはなすべきことがなかったので、裁判を傍聴している間中、法廷で祈りました。「主よ、どうかこの人の無罪を証明してください。そして、この誤った有罪判決を覆して彼を釈放してください。
帰国後もクリスチャンの友人たちと共に引き続き祈りました。数ヶ月後、判決が下りました。無罪判決でした。依頼者の喜びようといったら天にまで跳び上がるようでした。このように、「信仰」→「思考」→「実行」のプロセスによって、たくさんの難事件の解決を体験させていただいています。
2.「思考」と「信仰」の考察
ここでもう一度、「思考」と「信仰」の関係について検討したいと思います。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とへブル人への手紙11章1節に明確に定義されています。それでは、なぜ望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する必要があるのでしょうか。
それは「信仰」によって確信したこと、または確認したことが、現実になるためです。「何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう」(マルコ11:24)とイエス・キリストは言われました。要するに、「信じたとおりになる」ということです。
また、「信」という漢字は人と言(ことば)が一体となってできていますが、真理をよく表現していると思います。すなわち、人と神の言(イエス・キリスト)が一体となる(一緒に生きる)ことが、信じるということです。人がイエス・キリストと一緒に生き、一緒に歩き、一緒に働くなら、その人はどんなことでもできるはずです(ピリピ4:13)。ですから、「神を信じるなら、信じたとおりになる」ということができます。神を信じて初めて、その人の信じたとおりになるのです。神を信じるならば、神に従います。神の時、神の方法に従います。
しかし、私たちは往々にして、神を信じないで(神の時、神の方法に従わないで)、問題解決の結果のみを自分に信じ込ませて、何が何でも「今すぐ、自分の思いどおりに解決するように」と念じてしまいます。これは単なる「マインド・コントロール」であって、大変危険です。神を信じないで自分の念力(時には悪霊の力)によって物事を実現しようとするのですから。
多くの場合、これは失敗します(実現しません)。また自分の念力によって(時には悪霊が働いて)無理に実現させた場合は、神の栄光ではなく、自分の栄光や悪霊の栄光になってしまいます。
「思考」は、神への「信仰」と単なる「念力」(時には悪霊の力)の違いを、神の御言葉からチェックする機能を持っていると思います(マタイ7:16、ガラテヤ5:22)。ところが問題は、「思考」が働きすぎると「信仰」そのものをチェックし、抑圧してしまうのです。「信仰」によって歩む時の最大の敵は、サタン(悪霊)よりも、自分の「思考」であることが多いのではないでしょうか。
「こんなことはできるはずがない」
「これくらいのことはできるはずだ」
「あの時失敗したから、今度も失敗するだろう」
「あの時成功したから、今度も成功するだろう」
「あの人が失敗したから、私も失敗するだろう」
「あの人が成功したから、私も成功するだろう」
これが「思考」の一般的パターンですが、物事を外面的にとらえてパターン化(定型化)するのが「思考」の役割です。しかし「信仰」は、神と人との内面的な自由な生きた関係です。ですから、内なる「信仰」は外なる「思考」に優先するべきです。「思考」は、「信仰」に従うべきであって、「信仰」を制約したり、抑圧したりしてはならないのです。
聖書を読むとよくわかりますように、神の問題解決のなさり方は、人と時と場合に応じて実に千差万別であり、また臨機応変です。パターン化できないのです。ですから、問題を解決するためには、「思考」をいつも主に委ねて、絶えず主に祈り、「信仰」によって日々刻々主の導きを得ていくべきです。
「すべて信仰によらないことは罪である」(ローマ14:23)とありますが、神への信仰を第一としなければ、神による問題解決という最も良い報いを得ることができなくなります。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。(ヘブル11:6)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。