人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。(箴言12:14)
このことばには、満ち足りる幸せが、力強く約束されていますね。神と共に人生を歩む人は幸いです。私たちは誰でも、神と共に生きる人生を体験できるのです。
こんな話があります。アインシュタイン博士は、相対性理論を発表した後、あちらこちらで講演を依頼されました。いつもお抱えの運転手と出掛けます。ある大学の講演に行く途中、体の具合が悪くなってしまいました。博士は「今日の講演は中止してもらおう」と言いました。ところが運転手は「それでは今日は、私が先生の代わりに講演しましょう」と言ったのです。
博士はビックリして何も言えません。運転手はいつもアインシュタイン博士の講演を聞いているので、すっかりその内容を覚え込んでしまったというのです。その当時、アインシュタイン博士の顔はそれほどよく知られていなかったので、二人は洋服を交換しました。博士は教室の後ろに座り、運転手は並び居る研究生の前で、見事に講演をしたそうです。
ところが、今まで一度も出たことのない質問が飛び出しました。そこで運転手は少しも慌てず、「それはとても簡単な質問です。なぜなら私の運転手でさえも答えることができますよ」そこで運転手の服を着た博士、スラスラ答え、大拍手となったとのことです。まあ、ユーモアのある、アメリカらしい話ですね。
物理学の勉強をしたことのない人も、同じ話をしつこく何回も聞かされていると、やがて自分でも話すことができるようになります。ある意味では、私たちの語ることばは、いつもどのようなことばを聞かされているかに由来するようです。コンピュータはインプットしたものしかアウトプットしないように、私たちの人生もどのようなことばを聞いているかによって決まってくるのです。
新約聖書のヤコブの手紙の中に、「馬を御するためにはくつわ、船を動かすためにはかじ、人生を制するのは舌」と書かれてあります。舌、つまりことばですね。いつも否定的なことばを聞かされて育った人は、他人にもそうするものです。
聖書のことばは人を活かします。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)とありますが、聖書のことば、つまりイエス・キリストのことばは、常に新しいいのちの喜びを与えてくれるのです。
イエス様は出会った人々に、「お前はだめな人間だ」とは言われませんでした。人々から罪人、取税人とののしられていたザアカイに、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(ルカ19:9)と、彼の人生を変えてくださったのです。
ペテロに出会った時もそうでした。彼の最初の名前はシモンでした。「風にそよぐ葦」という意味で、頼りない、すぐ怒ったり、変わったりする弱い人間に、「ペテロだよ」と語ってくださいました。ペテロとは、「岩、岩石」という意味ですね。みんなに嫌われる汚れた病気にかかっている男には、「お前はまあ何と汚いね」とは語られず、「わたしの心だ。きよくなれ」(ルカ5:13)と言われました。イエス・キリストのことばに触れた者は、その生涯が変化するという大きな恵みを受けたのです。
そして、今日もイエス・キリストは、私たちをご自身のみもとに親しく招いてくださっています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
今日、イエス・キリストの救いのことばをインプットしてください。必ず、そのことばどおりの救いが、アウトプットされてきます。十字架に生命を捨て、三日目に復活したキリストの生命を体験する時、そこに新しい生命の喜びが湧き出てきます。幸せをお祈りします。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。