「ブラザー、私は宣教師としてここに来たのよ。でも私が教わることばかりで、教えることは何もないの・・・」
今、巷では「心の癒し」を求めてキリスト教や仏教の聖地を訪問し、実際に信仰の体験をする「聖地巡礼ツアー」というものが人気を集めている。株式会社ステラコーポレーションは国内・海外のカトリック聖地巡礼旅行の企画・提供を扱っている旅行会社の一つ。今回本紙は、同社の代表取締役を務める小池俊子さんに単独インタビューし、ステラコーポレーションの設立に至った経緯と、敬虔なカトリック信徒として神に仕えてきた小池さんの生涯に迫ってみた。
小池俊子さんは東京都港区高輪で生まれた。小池さんが生まれてすぐに母親が離婚。その後再婚した関係で静岡県の裾野市に移り住むことになった。その家は仏教の浄土真宗の家柄。そのためまだ幼かった小池さんは、祖母と一緒によくお寺やお墓参りに行ったという。しかし、信仰というとお盆にお墓参りに行くくらいなもの。当時は「神さま」という概念が一切ない生活を送っていた。
小池さんがキリスト教と出会ったのは、物心がつき始めた小学校6年生の時だ。家の近くにキリスト教カトリック系の中高一貫校、不二聖心女子学院があり、両親の勧めもあって小学校卒業後はそこに進学することになった。初めは嫌だった。今までは男女共学の小学校で勉強してきたから、女子校だと聞いた時には不安と戸惑いを隠せなかった。けれども初めてその学校に行った時、キリスト教カトリックの厳かな雰囲気に強烈な印象を受け、圧倒されてしまった。初めて「シスター」と呼ばれる修道女に出会ったときに、「いつか自分もこのような人になりたいな」と率直に思った。
それから不二聖心女子学院での6年間の学校生活が始まった。とはいうものの、キリスト教カトリックの精神に基づいた学校教育にはやはり違和感を感じた。何か特権階級というか、自分とは別世界に住んでいる人たちの集まりのような雰囲気を感じ、ショックを受けた。そのために、キリスト教に対する拒否反応が無意識のうちに生まれていった。同校では中学1年生の時から宗教学のクラスがあり、シスターが聖書の教えについて授業をする。しかしその授業に一切耳を貸そうとしなかった。当然のことながらテストは毎回赤点だ。他の教科の成績は悪くなかったが、通信簿の中ではいつも宗教学だけ赤だった。親は仏教の家柄だったので、「宗教学が赤点ならまあいいか」みたいな雰囲気で黙認してくれた。そんな感じで中学・高校の青春時代は過ぎていった。
そんなとき、高校2年生の終わりごろにいきなり校長先生から呼び出された。「あなたはカトリックの学校にいるのに宗教に一切興味がないようなので国立の大学に行きなさい」と勧められた。そのときハッと思った。「私はここで6年間もキリスト教の教育を受けながら、キリスト教については何もわからない。今までずっと耳を塞いできたし、自分から進んでやろうともしなかった。国立の大学へ行った時にカトリックの教えとは何ですか、キリスト教って何ですかと聞かれた時に何も答えられない・・・」
そう思った途端、すぐにシスターのところに駆けつけた。「宗教の個人授業を受けさせてください」とお願いして、週に一度のシスターとの個人授業が始まった。それが初めてキリスト教に興味をもった瞬間だった。聖書の中に、「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん」という聖句があった。それで無我夢中で求めてみた。すると不思議なことに、今までは教えてもらったことの全てに「ノー」と反論して拒否し続けていたのに、突然それが「イエス」に変わった。自分の中の意識が変わった。休み時間は学校内にある聖堂に行って祈った。宗教学のテストの点数は赤点から90点にアップした。そんなふうに突然変わったからシスターも同級生もすごく驚いていた。
そんなことがあってからある日シスターに洗礼を受けたいと告白した。するとシスターは、「あなたは今高校2、3年生の思春期でとっても感情的になっているのです。もっと冷静に考えられるように大学に行ってから洗礼を受けたらどうですか。洗礼を受けたいと思うなら国立の大学ではなくてそのまま聖心の大学へ行ったらどうですか」と勧めてくれた。その言葉がきっかけとなり、東京の広尾にある聖心女子大学へ進学することになった。
大学に入ってからすぐに洗礼を受けた。その後は生活の中心が完全に「神に仕える」ことに移った。これを「改心した」というのだろう。勉強はほどほどにして福祉活動に専心した。子どもたちを集めて土曜学校や日曜学校を開いたり、会社が倒産して生活に困っている人たちにお金を支援したこともあった。当時聖心女子大学にいた約1200人の生徒の全てが奉仕活動に従事していたから、本当に大きなことをすることができた。大学4年間は「キリストのように生きたい、生きたい・・・」といつも祈り求めた。午後3時に授業が終わった後は、希望者を募って毎日大学構内で「十字架の道行」をした。初めは少人数だったが次第に数が増えて50人近くになった。
大学を卒業する頃には熱くなった思いが極限に達していた。シスターになって自分の生涯を神にささげたかった。それで大学卒業後は就職をせずに、群馬県にある某修道院に入った。当時はとても貧しくて食べることすらままならないところだったが、あえてそのような生活を希望した。
何年か修道院で奉仕する日が続いた。しかしその後、大学で英文科を卒業した経歴を買われて海外宣教の場に派遣されることになった。行き先はアフリカのナイジェリア。アイルランドで1年間の語学研修を受けた後、ローマでナイジェリアのビザを取得して現地に向かった。日本人の開拓宣教師2人で向かった先はナイジェリアの南部、ニジェール川沿いに位置する「オニチャ」という町。かつては「白人の墓場」と呼ばれていた場所だ。マラリアによる被害がひどく、その町に遣わされた白人宣教師の多くが到着後1週間で死亡したことからそのように名づけられた。
オニチャに住んでいたのはイボ族という種族の人々。「福音を伝えたい」という一心であきらめることなくその地に宣教師を派遣し続けた。学校を作り、教会を作り、宣教をした白人宣教師たちの努力の結果、イボ族の85%くらいがキリスト教に回心した。一粒の麦が死んで豊かな実を結んだ。
現地では公立高校の教師を務めながら宣教した。食べ物が貧しかったり、飲み水が確保できなかったり、蚊が多くて体中がかゆくなったり、現地での生活は決して楽なものではなかった。それでも、生徒たちや現地の先生たち、そしてイボ族の家族らと霊的な交わりを共にし、心は喜びと宣教に対するエネルギッシュな感情で毎日満たされていた。そんな楽しい日々が続いた。
そんなナイジェリアでの宣教を通して一番印象に残ったことは、子どもたちの正直さと素直さだ。確かに人間だから嘘をつくこともある。しかし、彼らは神さまの前では決して嘘をつこうとしなかった。たとえばこんなことがあった。ある日、一人の生徒の学費が盗まれるという事件が起こった。それで担当していた寮の生徒200人全員に集まってもらい、お金を盗んだ生徒を割り出すことになった。「皆さん、この人のお金がなくなりました。誰が盗んだのか、そして今そのお金をどうしているのかを神さまは全部ご存知ですよ。一日時間をあげますから盗んだ人はそのお金を元に戻してください。盗まなかった人はその人が心から回心するようにみんなで心をこめて祈りましょう」と呼びかけた。このことを受け、生徒たちはみんなで学校の敷地内にある教会へ行って「お金が出てきますように」と祈った。すると盗まれたお金が無事に戻されたのだ。またある時は、ある生徒が嘘を言っているという告発があった。しかしその生徒は嘘はついていないと話す。それで「わかりました」と話して聖書を生徒の目の前に置き、「ここに手を当てて嘘を言っていないと誓ってください」と話した。するとその生徒は「誓えません。誓えません。私が嘘を言いました」と告白した。神さまの御前で嘘が言えない子どもたちを見ながら、小池さんは感銘を受けるばかりだったという。「本当に神さまを信じていなければこのような行動はできないと思う」と小池さんは彼らの信仰を証しする。
現地の人々の信仰の深さは彼らの普段の生活にも表された。教会は毎朝5時には信徒たちでいっぱいになった。6時に始まるミサに参加するため、祈りや賛美を準備するためだ。日曜日には教会に溢れるくらいの人々が集まった。信徒たちのそんな敬虔な姿を見て、ある日小池さんは、一人の修道士に心の内を打ち明けた。
「ブラザー、私は宣教師としてここに来たのよ。でも教わることばかりで私が教えることは何もないの。私は何のためにここに来たのかしら。皆さんのほうがよく福音を実践している。私にはそれができないのに・・・」
すると、その修道士は言った。「あなたはそこに立っているだけでいいのです。立っているだけでキリストを表すことができるんだよと。あなたは遠い日本からわざわざ何をしにここまでやって来たのですか?キリストのためだけでしょう。あなたはただ立っているだけでも、『福音を伝えるためにここに来た』ということを伝えることができるのです。お金儲けのためではない。人に何かを押しつけるためでもない。自分の理念を押し付けるわけでもない。ただキリストの福音を伝えたいからここにいる。だから立っているだけでいいのです」と。そんなふうに、本来ならば生徒たちを励ますべき立場にいる自分が逆に励まされることが多かったという。
そんな楽しい宣教生活が続いていたとき、ある日突然ローマから召集がかかった。「あなたはもうナイジェリアには戻りません。アメリカに行ってください」との旨を告げられ、さすがにショックを隠せなかった。一晩中泣いた。本当にナイジェリアが好きだったし、オニチャの人たちに別れの言葉を告げることもしなかったからだ。しかし自分に問いかけてみた。「神さまが私にナイジェリアではなくてアメリカで働きなさいとおっしゃっているのになぜ泣くの?」と。「今はエネルギーをアメリカのほうに傾けないといけない」と自分を必死で説得し、アメリカに渡った。
小池さんは、海外宣教において一番大切なことは「同じ釜の飯を食べ、同じ言葉を話すこと」だと話す。そうすると本当に血のつながった兄弟のようになれると語った。「国や文化が違うからといって自分たちは自分たちの食事をし、平気な顔で母国語を話すならば教壇に立って教えようとしても誰もついて来てくれない。本当の友達にはなってくれない」と小池さんは話す。
2年後、小池さんはアメリカでの宣教を終えて再びナイジェリアへ戻ることになる。小池さんのその後と株式会社ステラコーポレーションの設立については次回に記載する。