9.永遠のベストセラー
「あらゆる問題を解決する秘訣」は聖書に書かれています。聖書は永遠の書物であると言われています。イエス・キリストは、「天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)と言っています。この世の書物は、六法全書をはじめとしてすべて、時や場合によって移り変わっていく一時の書物にしかすぎません。この世の書物は、問題を一時的に解決することしかできません。しかし、永遠の書物である聖書は、私たちにあらゆる問題を根本的に解決していく力と答えを与えてくれます。
世界中で二千万冊以上の聖書が毎年出版されています。この世界最大のベストセラーである聖書は、数千年もの間読み継がれてきましたが、これからも永遠に読み継がれていく神の書物です。誰でも生涯で一度は、この聖書を真剣に学んでみる価値があります。もしあなたが、まだ神など信じられないとお考えでしたら、ぜひ聖書を良く学んで、イエス・キリストの生涯と死と復活をとおして、愛の神を熱心に探してみてください。先入観を捨てて、素直な心で聖書をお読みになったら、必ず神を見い出すことができるでしょう。
次に、直面している問題の解決を、神に求めてみてください。きっと、これまでに想像もしなかったような解決が与えられ、すばらしい人生が開かれてきます。
10.問題の山を動かす
聖書を学ぶことによって、神の限りない愛を体験できる毎日は、私にとってまさに奇跡の日々です。神を心から信じる者にとって、解決されないような問題はあり得ないのです。イエス・キリストはこう言っています。
神を信じなさい。よく、聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこであなたがたに言うが、何でも祈り求めることは、既にかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコ11:23〜24)
私たちが直面する問題の解決を神に祈り求めるとき、その問題は神によってすでに解決されていることを信じ続けるなら、必ず解決が与えられるのです。そのようにして、問題の山を現実に動かすことができます。問題が解決しないのは、多くの場合、私たちの神への信頼が小さいため、「心に疑わないで信じる」ことができないからです。また、問題解決のために神が与えてくださる指示に、私たちが忠実に従わないからです。
大切なことは、私たちが慌てふためいて問題解決のために走り回ることではなく、飽くまでも落ち着いて全能の神の御前にその問題を持って行くことです。そうすると、神が問題を解決してくださることを体験できるのです。世間に対して献金、その他の援助を一度も求めずに、ただ神に祈り求めることによって数千人の孤児を養い育ててきた上、大きな聖書学校をも経営してきた、イギリスのジョージ・ミュラーは、その生涯において記録しただけでも5万件もの祈りが全てかなえられた、と言っています。
このようにしてさまざまな問題が神の力によって解決されていくことは、実にうれしいことです。揺るがない確信を持って、問題に積極的に取り組んで、たくましく前進できます。そして、将来に対して一層明るい希望と、より高い理想が生み出されてきます。なぜなら、私たちの弱い力では不可能なことも、神には不可能なことはないと信じつつ、問題に取り組むことができるからです。弱い私たちが、この世の強大な悪の力に対抗して勝利を得ることによって、この世を腐敗から守る役割を果たすとともに、失望と悲観に覆われている人々に対して明るい希望の光として輝くことができるようになります。問題が解決されることをとおして、そこに神の愛と正義が実現され、私たちもその喜びにあずかることができます。
11.あらゆる問題の究極の解決
しかし、問題が次々に解決されていっても、問題が全く無くなってしまうわけではありません。いやむしろ、一つの問題が解決されると、次には、より大きな、より難しい、新たに取り組むべき問題が待っています。それでは私たちは生きている限り問題を背負って、その解決のために苦しみ続けなければならないのでしょうか。あらゆる問題が現実に解決されるまで幸福になれないというのであれば、私たちは死ぬまで幸福になれないことになります。神が全知・全能のお方であるなら、すべての問題は神の御手の内にあるはずです。神は私たちを愛しておられるのに、どうして私たちが生涯にわたって問題に直面することを許しておられるのでしょうか。
それは、問題に直面し、それと取り組んでいくことが、真の意味で私たちの益になるからです。神は私たちを愛しておられるがゆえに、私たちと共に苦しみながら私たちが問題に直面することを許しておられるのです。そして、神はこれらの問題をとおして、私たちが「あらゆる問題の究極の解決」をつかむことを願っておられるのです。
「あらゆる問題の究極の解決」とはどんなことなのでしょうか。それは、具体的問題と取り組むことをとおして、私たちが神を見い出し、神に助けを求め、そして神とますます親密に生きるようになることです。この世の荒波のただ中でこそ、困難な問題によって私たちの固くなな自我が打ち砕かれて、その代わりに、神の確固とした平安と、神の尽きることのない喜びが増し加えられて、生きていくことができるようになるのです。神と人間の愛の結びつきは、人間がさまざまな問題と取り組むことをとおして、ますます深められ、強められていくという、現実的かつダイナミックなものです。
私たちが全能者との愛の深い信頼関係に生きるならば、私たちは「神の国」すなわち「天国」に生きているのです。誰でも考えるように、「天国」には、争い、嘆き、悲しみ、病気や死はありません。そこには、愛、喜び、平和そして「永遠の命」があります。私たちは死んで初めて「天国」ヘ行けるのではなく、この世にいるうちから、心の中に「天国」を持つことができるのです。
具体的な問題に直面し、その正しい解決のために、悩み苦しんだあげく、自分の非力を悟り、全能の神にそれをゆだねるとき、問題の真の目的が達成されるのです。問題の真の目的は、私たちが神との愛の信頼関係を限りなく深めていくことにあります。神と共に生きる無限の価値と比べれば、問題が現実に解決されたかどうかは、最も大切なことではなくなってしまいます。
この世は有限であり、一時的であり、相対的な世界にすぎません。しかし、神は、無限であり、永遠であり、絶対的な存在です。ですから、ひとつ一つの問題を神は恵みに転換してくださることを信じて、その問題をとおして、すべてのすべてであられる神と一層親しくなれることを感謝しつつ、これと取り組んで生きていけばよいのです。そうするならば、私たちは真に幸せな人生を生きていることになります。神と共に親密に生きることができるならば、現実の問題と取り組みながら、あらゆる問題を精神的に乗り越えて生きることができるという意味において、「あらゆる問題の究極の解決」が与えられている、と言えるのです。
ある時、草津にあるハンセン病患者の療養所にクリスチャンの患者の方々を慰問に行きました。感染するようなライ病菌は日本にはもはや存在しないと知らされていましたが、内心では恐れと不安がありました。この世の最も悲惨な病気に苦しんでいる方々をどのように慰めたらよいのかわかりませんでした。しかし、私がそこで見たものは、まさしく天国の一場面でした。驚くべきことに、耳や鼻や目や手首のない患者さんたちは、明るく輝き、喜びに満ちあふれていました。ちょっとしたことでも、子どものように純心に笑い転げていました。その話し声は鈴のように美しく鳴り響きました。
慰めに行った私たちは、「皆さんは世の中でいろいろな問題に取り組んで戦っておられますから大変ですね。どうぞ、神さまがいつも助けてくださいますから、神さまにゆだねて働いてくださいね」と、患者さんたちから逆に励されて帰ってきました。ハンセン病患者の方々は、神を心から信じ愛することによって、病気という問題に対する究極の解決を得ていたのです。
私は、神に祈り求めることによって、どんな難病も癒されると信じています。人間を創られた方が、病気を癒すことができないはずはないと思うからです。しかし何らかの理由によって未だ癒されていない状態にあっても、神と深く結ばれることによって、その人は最高の幸福を体験していけるのです。
実は、問題が存在するという事実よりも、問題がもたらす消極的要因(恐れ、不安、悲しみ、失望、怒り、貧欲、ごまかしなど)の方が重大です。問題の消極的要因が取り除かれてしまえば、問題の存在自体は私たちに何ら否定的な力を及ぼすことはできません。逆に、問題の積極的要因(反省、挑戦、勝利、克己、超越、希望、謙遜、助け合い、隣人への愛、神への信頼など)が生かされることによって、どのような問題も私たちに益をもたらすことができます。神は、愛の欠如によって私たちが生み出した諸問題の消極的要因を取り除き、積極的要因を生かすことによって、すべてのことを益としてくださるのです。
12.死の問題の解決
この世で生きるためのあらゆる問題を解決できたとしても、最後に死の問題が残っています。すべての人は死にます。これは避けることのできない事実です。死は恐ろしいことです。それでは、死に対する恐怖はどのようにしたら解決できるのでしょうか。「人はいつかは死んでしまうんだ」という虚無感から、どのようにしたら解放されるのでしょうか。
以前、造船疑獄事件、ロッキード事件などの戦後日本の重要な刑事事件に献身的に取り組んできた元検事総長が、「人は死ねばゴミになる」という著書を残して、ガンで亡くなりました。この本のテーマは、人間は死んだ後には、肉体は灰になり、魂は消えてなくなってしまう、ということです。この本は当時長い間ベストセラーになりました。それは、たくさんの方々が、この元検事総長の生きざまと思想に強い共感を覚えたということの証拠です。この著者のように人生を真剣に生き抜いた人を含めた実に多くの人々が、同じようなはかなく、むなしい思いを抱いて、この世を去っていくのではないかと思います。
人間とは本当に、そんなにもはかなく、むなしいものなのでしょうか。私もかつてはそう思っていました。私の心にはいつも大きな空洞がありました。どんなに善いことをしても、どんなに高い地位についても、どんなに大きな財産を築いても、どんなに幸せな家族がいても、死んだらすべてが無になってしまうという、底なしのむなしさを克服することができませんでした。そして、「どうせ人生なんてそんなものさ」と締めて、飲んだり、食べたり、遊んだり、適当に勉強したり、働いたりして、束の間の人生を過ごそうとしてきました。しかし、心の底では、「いや私の人生はこんなものではないはずだ。はつらつとした喜びと愛と力が尽きることなく湧き起こってくるような、もっと充実した人生であってよいはずだ」という希望を捨て去ることができませんでした。
フランスの科学者であり哲学者でもあるパスカルは、「人の心には神によってしか埋めることのできない空洞がある」と言いました。本当にそのとおりです。私たちの心の世界は、宇宙をも包み込んでしまうような、壮大なものです。私たちは、富や名誉や権力を追い求めて、心の空洞を満たそうと必死に努力しています。しかし、富や名誉や権力は、そもそも有限なものです。繰り返し、繰り返し報道され、マスコミをにぎわしているいろいろな事件からも明らかなように、それらは一瞬のうちに崩れ、失なわれてしまう、むなしく、はかないものです。そのようなむなしいものでは、人の心の空洞が埋まるはずがありません。
私自身、心の空洞を満たすために、あらゆる努力をしてみましたが、すべては徒労に終わりました。しかし最後に、イエス・キリストを私の救い主として信じて心に迎え入れたとき、長年のむなしさからついに開放されたのです。神の限りない愛が、そして神ご自身がその聖なる霊によって、私の心の大きな空洞を満たしてくださったからです。それ以後、私は一度もむなしいと思ったことがありません。いかなる時にも、神は私を愛しておられ、またどこへ行っても、神は私と共にいてくださることを実感できるからです。聖書は、次のようないつくしみ深くかつ力強い励ましを、私たちに与えてくれています。
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽ることがない。(哀歌3:22)
強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主がともにおられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。(ヨシュア1:9)
このような体験をとおして、今の私は、聖書に書かれているように、「自分の罪を悔い改めて、神の御子・イエス・キリストを救い主として心に迎え入れた人は、神の永遠の命が与えられて、肉体の死を越えて神の国に永遠に生きることができる」と信じています。肉体の死は、私たちの霊魂が肉体とこの世の束博から解放されて完全に自由になり、高らかに神を賛美しつつ、希望と喜びに満ちあふれる、栄光の輝く、永遠の都「神の国」へ凱旋するための「門」である、ことを確信しているのです。なぜなら、聖書によれば、イエス・キリストは「永遠の命」そのものであられるからです。
もし、「永遠の命」が与えられているとすれば、死の問題は解決されているわけですから、その人にとっては、真の意味で「この世のあらゆる問題は解決されている」と言えるのではないでしょうか。死に対して恐れや虚無感を持っているのは、その人が死後の世界に対する確信を持っていないからです。
人は死んだらゴミになって消えてしまうのでしょうか。あるいは、人は輪廻転生を繰り返すのでしょうか。それとも、聖書に書かれているように、人は死んだら、「永遠の滅び」の世界に行くのか、「永遠の命」の世界に行くのかのどちらかなのでしょうか。果たして何が真実なのでしょうか。もし私たちがいずれかの道を選ぶことができるのでしたら、あなたはどの道を選ばれるでしょうか。
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅ないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
イエスは彼に言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11:25〜26)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。