イエスは答えられた。「・・・あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
世に勝つ者はだれか。イエスを神の御子と信じる者ではないか。(1ヨハネ5:5)
1.はじめに
「問題のない人は、お墓の中にいる人である」と言った人がいます。確かに私たちには生まれてから死ぬまで、一日として問題のない日はありません。進学・就職などの進路の問題、恋愛、結婚生活、子供の教育などの家庭の問題、仕事や職場での人間関係の問題、病気・老後そして死の問題、その他に政治・経済・社会問題など、数え上げればきりがありません。
私は長年、弁護士として、毎日のように依頼者から持ち込まれる法律問題の解決に携わってきました。ここで、聖書のみことばから、またさまざまな法律問題に取り組んでこれを現実に解決することを職業とする弁護士としての体験から、「あらゆる問題を解決する秘訣」ということについてお話ししてみたいと思います。
私が所属していた事務所は、国際間の法律問題を専門とする国際的法律事務所でした。その業務は、国際間における技術・販売提携、合弁会社、外国会社の子会社・支店設立、ダンピング問題、輸出入取引に関するクレーム処理、外国会社による株式上場、社債発行、海外資源開発、企業・不動産の買収・売却、航空機・船舶の売買・リース、金融・税務問題、会社のリストラ・倒産処理、労使問題、特許・商標・ノウハウ侵害問題、外国人のビザ・入国許可の問題、麻薬密輸の刑事事件など、実に多岐にわたります。国際弁護士は、依頼者から持ち込まれるこれら多方面の問題に対処することが、要求されます。
これらの分野は、全く経験したことのない分野もあり、未知の新しい法律問題が次々と発生してきます。特に、私が個人的に専門としてきた人工衛星やスペース・シャトルの打ち上げ、宇宙基地建設などの宇宙開発関係の法律の分野はその傾向が著しく、仕事は非常に興味深く面白い反面、ひとつ一つの問題解決のためには、大変な苦労を要します。
また、最近の日本の国際化傾向に伴い、仕事はますます増大し、その内容は複雑となり、規模も一件数十億、数百億円という事件も増えています。
さらに、コンピューターやインターネットなどの情報の処理・伝達能力の飛躍的発展により、各事件処理のスピードも急速に早まってきています。国際間の時差を逆に利用してファックスや電子メールで通信していると、昨日の夕方または夜に外国に送信した問い合わせが、今日の早朝には回答されているというように、国際事件の方が国内事件よりもかえって早く進むことが多いくらいです。
したがって、国際弁護士にとっては毎日が緊張の連続です。少しでも法的判断を間違えると、大変な事件に発展してしまう危険性が常にあるからです。
法律問題以外にも、人種、国籍、信条、宗教、商習慣、文化、言語の相異に常に直面しなければなりません。このストレスも大変なものです。同じ英語でも、インド人やフランス人、スウェーデン人などの英語はわかりにくく、国際電話で話した後には、念のため確認のファックスを送ってもらうことにしています。
また、さまざまな紛争事件を担当しますと、依頼者の権利を守るためには、ヤクザや暴力団とも対抗しなければならないときもあります。以前、関西から数人の暴力団員が刀のような物を持って事務所に乗り込んできて、大声で騒ぎ出したため、警察署のパトカーが白昼、事務所のあるビルに横づけされたという事件がありました。このような場面では私どもは命懸けです。
さらに、社会の正義と公正を実現するためには、行政官庁や大会社と正面から対決していかなければならないこともあります。一個人にしかすぎない弁護士が大組織と対決するわけですから、相当な勇気と緊張を必要とします。
2.弁護士のバイブル
弁護士のバイブルは六法全書であるといわれています。このぶ厚い書物には、数多くの法律が小さい活字でびっしり印刷されています。私は弁護士になったら、六法全書が一冊あればやっていけると思っていました。六法全書をマスターすれば、すべての問題を解決できると思っていたのです。
ところが、現実はそう甘くはありません。実際には、六法全書のほかに法律や規則や条例がたくさんあります。それらに加えて明文化されていない行政官庁の行政指導も数え切れないほどあります。また、法律や規則で明記されていない点が争いになって裁判へ持ち込まれるわけですが、それらの判例集が山ほどあります。そのうえ、法令や判例はめまぐるしく変わり、それらを解説する法律解説書や法律雑誌も多数出版されています。弁護士はその道の専門家ですので、法律問題について間違ったことは言えません。ですから、良心的に仕事に当たろうとすればするほど、その責任からくるストレスは大きく重くなってきます。
弁護士になりたての頃は、はりきって、いろいろな法律解説書を買いあさり、また各種法律雑誌や判例集にもくまなく目をとおしていました。また、国際弁護士は法律を知っているだけでは不十分であると思い、日刊新聞だけでも6種類、経済・政治週刊誌5種類、その他必要と思われるもの、興味のあるものは何でも読んでいました。毎日テレビを見て、ラジオも聞いていました。
しかし、その結果、あまりにも多い情報に圧倒されてしまいました。常に頭の中に雑多な情報がつめ込まれている圧迫感がありました。だんだんと自分で考え、自分で判断していく力が失われ、他人の知識や情報にのみ頼る生活に陥ち入ってしまったような気がします。どんなにたくさん学んでも、どんなに多くの情報を集めても、もうこれで十分だと安心できたことはありませんでした。そんな時に、私の後輩で非常に優秀な弁護士が、ノイローゼになって1年以上も行方不明になっているという噂を耳にしました。そして、自分ももしかしたらそうなるのではないかと思って、ゾッとしたことがありました。
私は自由にあこがれ気楽に生きようと思って、弁護士の道を選んだのです。国際的法律事務所に勤務して、数多くの国際企業の顧問弁護士としていろいろな仕事を担当し、世界各地を飛びまわっていました。そのように、表面的には自由かつ気楽に仕事をしてきました。しかし内実はそうではなかったのです。弁護士として依頼を受ける問題は、決して易しいものばかりではありません。多くの場合、受任事件は困難な重荷としてのしかかってきました。仕事中はもちろん、仕事が終っても、それらの問題は最終的に解決されるまで、頭から離れません。
私はいつの間にか、数多くの問題にとり囲まれ、がんじがらめになってしまいました。がんばればがんばるほど、依頼される問題はもっと増え、仕事の責任はますます重くなっていきます。これらの問題の重圧は、ゴルフや酒や旅行による一時的気晴しで解消するようなものではなく、しばらくして私は自分の体力と知力の限界を感じ、くたくたに疲れ果ててしまったのです。結局六法全書からは、法律問題に対してすら、納得できるような解決をする方法を発見することはできませんでした。
3.すべての人のバイブルとの出会い
6年ほど弁護士として働いた後、もう一度人生を考え直してみようと思いました。そして、オーストラリアのメルボルンにある大学に留学しました。メルボルンでは、すべてが東京とちがってゆったりとしていました。本来なら1年で卒業できるコースを、大学で日本法を教える手伝いをしたり、現地の法律事務所で働いたりしながら、3年もかけてゆっくり勉強することができました。あまり居心地が良いので、メルボルンに永住しようかと思ったほどです。
そのようなある日、友人に誘われて大学のクリスチャンの集会に出席することになりました。その集会で、オーストラリアヘ新婚旅行にきたアメリカ人の青年の話を聞くことができました。彼は開ロ一番こう言いました。
「僕は今世界一幸せです。喜びでいっぱいです。最愛の妻とめぐり会い、結婚することができました。僕は妻を心から愛しています。しかし、僕には妻以上に愛している方がいます。妻も私を心から愛していますが、私以上に愛している方がいます。その方とはイエス・キリストです。イエス・キリストの限りない愛によって愛されている僕達は、世界一幸せです」
その青年は確信に満ちあふれ、その顔は喜びに輝いていました。私は大きなショックを受けました。それまでの私は、「僕は世界一不幸だ」と思って人生を嘆いたことはあっても、「僕は世界一幸福だ」とは思ったことはなかったからです。そこで私はすべての人のバイブルと言われている聖書を学び始めました。しかし、徹底した唯物主義者であり、また科学万能を信じる無神論者だったその頃の私には、神の存在を前提とする聖書は全く理解することができませんでした。そして、クリスチャンの方々の熱心な努力にもかかわらず、私は根本的なことはよくわからないまま、帰国してしまったのです。
幸いなことに、日本に帰ってからも、日本人のクリスチャンのグループで、聖書を学ぶ機会が与えられました。聖書を学んでいくうちに、少しづつ、宇宙・万物を造り支配しておられる全知・全能の愛の神が存在することを、いろいろな体験をとおして確信するようになりました。大きくは、広大な宇宙の構造、太陽と地球の間の全く狂いのない整然とした秩序から、小さくは、人間の身体の完璧な機能、1つの細胞また遺伝子などの極めて精緻な構造と能力に至るまで、創造者である全能の神の存在を前提にしなければ到底説明できないことが、あまりにもたくさんあることに気がついたのです。
すべての事物は、決して偶然の積み重なりで成り立っているのではなく、私たちの想像力、理解力をはるかに超える偉大な神の叡知によって成り立ち、支配されていることがわかってきました。人間は、神が人間のために造り、恵みとして備えてくださっている自然界の物を、組み立てたり、神の法則を利用したりしているにすぎないのだ、ということが理解できるようになりました。このような理解に立ってみると、「科学の進歩によって人間は何でもできるのだ」と信じてきた自分が、大変傲慢であったことに気づかされました。
同時に、聖書に書かれているイエス・キリストの生涯を学んでいくうちに、自分が神から離れているために、いかにみじめな状態に陥ち入っているかを、悟ることができました。私はそれまで、他の人々と比べて「自分は善人だ」と思ってきました。他の人々も「佐々木さんは善い人だ」と言ってくれていました。ところが、聖書の倫理基準に照らして自分を反省してみたとき、私は人前では明るく、またおとなしく振舞っていましたが、人々の見ていない所ではいろいろな悪を行い、特に心の中ではあらゆる悪い思いを抱いてきたことがわかってきました。
それらは世間の常識では悪いことではなくても、神の目にははなはだしく悪いことなのです。外面的には比較的善人でしたが、内面的には悪人であることがわかりました。本当の私は、無関心、貪欲、不満、高慢、劣等感などに満ちていたのです。もし永遠の滅びといわれる地獄があるとすれば、私はそこヘ落ちてしまうことは間違いないと思い、恐れおののいてしまいました。そして、それまで何十年もかけて努力してきたにもかかわらず、真の確信も真の喜びもない日々を過ごさなければならなかった最大の原因がどこにあったのかを、ようやく悟ることができました。
その原因は罪にありました。罪とは「的はずれ」、すなわち私の心の方向が神という最も大切な的からはずれているということです。神が存在し、神が私を造り、私を愛し、私のために真の幸福を与えようとしておられるのに、これを無視し、知ろうともせず、拒絶して自分勝手に生きてきたことです。自分の努力とこの世の手段で、なんとかして幸福をつかもうとしていたのです。その結果は、疲れと緊張でいっぱいの喜びのない生活を送っていました。
しかし、そのように罪の泥沼にもがき苦しみながら永遠の滅びに至ろうとしていた私を、神の永遠の命と平安と喜びを得させるために、神ご自身が人間イエス・キリストとしてこの世に現れてくださって、私の罪の犠牲となって十字架の上で死なれたことを知ったのです。私の心は、罪の恐ろしさにふるえると同時に、その罪を赦してくださった神のすばらしい愛に対する感謝と喜びでいっぱいになりました。そして、キリストが死後3日目に生き返ったその復活の力を信仰によって受けることによって、私は「神の子」として真の意味で新しく生れることができました。
イエス・キリストこそが神ご自身であり、私の究極の救い主であることを心から悟ったことは、この世にあってまったく新たに生まれたといえる体験でした。神の絶大なる愛が私に日々降りそそがれ、私はその愛に包まれていることがわかってきました。私は決して自分で生きているのではなく、神の愛によって生かされていたのです。ついに、私自身が到達すべき最高の幸福にたどり着いたという意味において、「僕は今世界一幸せです」と胸を張って言えるようになりました。なぜなら、このような悪人の私を、神はこれまでずっと愛してきてくださり、これからもその無限の愛をもって永遠に愛しつづけてくださるからです。(続く)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。