あなたの言ったとおりになる。(マルコ 11:22〜24)
1.山をも動かすことばの力
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、『動き出して海の中に入れ』と言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこであなたがたに言うが、『なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう。』(マルコ 11:22〜24)
これは、「天地は滅びるであろう。しかしわたしのことばは滅びることはない。」(マタイ24:35) とおっしゃったイエスさまご自身のみことばです。ですから、絶対に間違いのない永遠の真理です。これは「山をも動かす信仰」(Mountain Moving Faith)と言われていますが、その原理は全く単純です。
要するに、「あなたが信仰をもって言ったことは、あなたの言ったとおりになる」ということです。
これは神を信じる私たちクリスチャンに与えられた、すばらしい特権ですね。神を信じていなくても、私たちが言ったことは、多くの場合そのとおり実現しています。
神を信じているならば、その確率はもっと高くなるはずです。そして、神を完全に信頼している人にとっては、その人の言ったことは、100%実現することになります。
2.イエス・キリストが言ったこと
皆さん、人類の歴史上、その生涯にわたって神を完全に信頼した人はだれでしょうか。もちろんそのお方は、神の御子・イエス・キリストです。新約聖書の福音書をよく読んでください。福音書は、イエス・キリストの生涯と言動を詳しく書いた本ですが、イエスさまはそのご生涯においてたくさんのことを語られました。そして、驚くべきことに、イエスさまの語られたことは、ことごとく実現しているのです。
・イエスさまが嵐に「静まれ」と命じると、嵐は静まりました。(マタイ8:26)
・人にとりついている悪霊に「出て行け」と言うと、悪霊は出て行きました。(マルコ1:25)
・死んで墓に葬られ4日もたっているラザロに、「ラザロよ、出てきなさい」と大声で叫ぶと、ラザロは生き返って墓から出てきました。(ヨハネ11:43)
・実が成っていないイチジクの木に向かって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言うと、そのイチジクの木は枯れてしまいました。(マタイ21:19)
・ペテロがガリラヤ湖の水の上を歩きたいと言ったとき、イエスさまが「来なさい」と言うと、ペテロは水の上を歩くことができました。(マタイ14:29)
3.神が言ったこと
それでは神ご自身が言ったことはどうでしょうか。創世記第1章には神が天地万物を造られた様子が具体的に書かれています。神さまは、天地万物をどのように創造されたのでしょうか。
神はことばを語ることによって、天地万物を創造されたのです。神が「光よあれ」と言われると、光ができた(創世記1:3)のです。 「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」と言われると、そのとおりになりました(同1:11)。 「水は生き物の群で満ち、鳥は地の上、天の大空を飛べ」と言われると、そのとおりになりました(同1:20)。 このように、神が言われたそのことばが、そのまま現実になっているのです。
神は預言者イザヤをとおして次のように言われました。
天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種をまく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出ることばも、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶことをなし、わたしが命じ送ったことを果す。(イザヤ 55:10〜11)
「神の口によって語られたことばは、必ずそのことばどおりに実現するのだ」と神ご自身が言っておられるのです。
人類の歴史(特にイスラエル民族の歴史)をふり返って見ると、神が聖書の預言者たちによって語られたことは、ことごとく実現しています。未だ実現していないことは、これから実現して、聖書の正しさを証明していくでしょう。
歴史のことを英語でヒストリィ(History)と言います。これは、ヒズ・ストーリィ(His Story)、すなわち「神の物語」という意味に理解するとよくわかります。
4.人が言ったこと
神は天地万物を創造するほどの全知全能のお方ですから、神の言ったとおりになることは当然でしょう。また、イエス・キリストは神の御子であり、神が人となられた方ですから、イエスさまの言ったことはそのとおり実現することも理解できます。
それでは私たちが言ったことはそのとおりになるのでしょうか。イエスさまは、「そうだ」とおっしゃっています。マルコ11章22節から24節をもう一度読んでみましょう。
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、『動き出して海の中に入れ』と言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこであなたがたに言うが、『なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう。』
イエスさまは、「だれでも」と言われました。「だれでも」ですから、「あなたも、私も」です。「あなたの言ったことも、私の言ったことも、信じて言ったことは、そのとおり実現する」と、イエスさまは言っておられるのです。
まず、「神を信じなさい」と言われました。天地万物をご自身のみことばによって造られた全知全能の神を信じなさい、ということです。ご自身の言ったことを必ず実現される父なる神を信じなさい、ということです。
この「神を信じなさい」というみことばは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと、「神の信仰を持ちなさい」ということだそうです。「神の信仰」とは何でしょうか。それは、神はその言ったことばによってご自身の意思を表現し、その言ったとおりに実現させておられますが、そのような信仰のことです。
ですから、「神を信じなさい」すなわち「神の信仰を持ちなさい」ということと、「言ったことは、そのとおり実現する」ということとは、同じことを言っているのです。
だれでも、この山に『動き出して海に入れ』と言い、その言ったことは必ず言ったとおりになると、心に疑わないで信じるなら、その言ったとおりになる、のです。
5.秘訣−心に疑わないで信じる
これはものすごいことですね。その秘訣は、「必ず言ったとおりになると心に疑わないで信じる」ことです。これがまさに「神の信仰を持つ」ことです。言いかえれば、「神の信仰を持つ」とは、「心に疑わないで信じる」ことです。
「心に疑わないで信じる」とは、「心底から」必ず言ったとおりになると確信し、その確信を持ちつづけることです。「頭で」すなわち人間の知性で疑ってもよいのです。そのような信仰は通常、人の知性に反することが多いわけですが、心の奥底で確信を持ちつづければよいのです。
ですから、「心に疑わないで信じる」ことさえできればよいのです。そうすれば、どんなことでも、あなたの言ったとおりになるのです。山をも動かすことができるのですから、あなたが「病よ、いやされよ」と言えば、病気はいやされます。「必要なお金よ、手に入れ」と言えば、必要なお金が手に入ってきます。確信を持って、「問題よ、解決せよ」と言えば、問題は解決するのです。
悪霊を追い出せなかった弟子たちに対して、イエスさまはこう言っておられます。
するとイエスは言われた。「あなたがたの信仰が足りないからだ。よく言い聞かせておくが、もしからし種ひと粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このようにあなたがたにできないことは、何もないであろう。」(マタイ17:20)
イエスさまは、「もし私たちにからし種のような信仰があるなら、山に命じてこれを動かすことができるのだ、そのように私たちにできないことは何もないのだ」と言われました。
ここで、「もしからし種のような信仰があるなら」とありますが、皆さんは「からし種」を見たことがあるでしょうか。今日私はひと粒の「からし種」を持ってきました。このように吹けば飛んでいってしまうような、非常に小さいものです。なぜイエスさまは、このような小さなからし種のような信仰があれば、山をも動かすことができると、言ったのでしょうか。
からし種はこのように小さいものですが、土にまかれて成長するとやがては空の鳥が飛んできてそこに巣を作るほど大きくなります(マタイ13:31〜32)。このように、からし種はその小さな殻の中に非常に大きな可能性の力を持っているのです。
これと同じように、あなたが言ったことが必ず実現すると確信を持って「ことば」を語るならば、それがどんなに短い「ことば」であっても、信じたとおりの成果をあげるのです。ですから、からし種のような信仰とは、「神の信仰」すなわち「心に疑わないで信じる」ということです。
ヤコブの手紙1章5節から7節にはこう書いてあります。
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるように思うべきではない。
ここでも心で「疑わないで信じる」ことが強調されています。
言いかえると、いくら願い求めても、いくら山に命じても、心で疑っていたら、それは実現しないということです。
6.ある医師が言ったこと
私は子供の頃から胃腸が弱く、慢性の胃下垂に悩まされてきました。いつも胃の薬を飲んでいました。弁護士になるための司法試験に合格して、宇都宮の裁判所、検察庁、弁護士会で実務の研修をしていたときのことです。
数カ月の間、胃のあたりに針で刺すような小さな痛みを感じていました。弁護士になってから病院に行くよりは、生活に比較的余裕のある研修期間中にお医者さんに診てもらって治しておこう、と思いました。そこで、当時できたばかりの最新設備を誇る宇都宮国立病院に行って、診てもらったのです。
バリウムを飲んでレントゲン検査をした結果、十二指腸に潰瘍があるということでした。お医者さんから薬をもらって飲みました。毎日お医者さんの食事制限の指示に従って何カ月か過ぎました。しかし、痛みはとれないとどころか、もっとひどくなってきます。
もう一度病院に行って、今度は精密検査を受けました。その結果、「十二指腸潰瘍がかなり悪化しています。潰瘍が悪化して胃や腸に穴があいて食べた物が体内に出ていったら、命とりになります。もしかしたら、胃と十二指腸全部を切除しなければならないかも知れません。とにかく、すぐに手術をしましょう」と医師から言われ、がく然としてしまいました。
これから弁護士という激務を始めようというのに、胃と十二指腸を失ってしまって、一体仕事をやっていけるのだろうか、と将来が真っ暗になってしまいました。しかし、大きなレントゲン写真を何枚も見せられて、潰瘍があることをはっきりと知らされて、若手の有能な医師にそう言われたら、「私はいやです」とも言えません。恐る恐る手術の日程の打ち合わせをしました。
ところが、ちょうどその頃は宇都宮での研修が終わって、東京の研修所に戻る時期でした。そのため手術の日程が合わず、研修所に戻ってから東京の病院でやってもらうことになったのです。
暗たんたる気持ちで、宇都宮病院から、カルテとレントゲン写真と推薦状をもらって、東京に戻ってきました。しかし、どうしても病院に行く気がせず、家で悩んでいました。
すると母が心配して方々に当たってみてくれたようで、ある日「近所にちょっと変わっているけどよく治るというお医者さんがいるようだけど、診てもらったらどう」と言ってくれました。私は、そんな医者は信頼できないと思って気が進みませんでしたが、診てもらうだけならいいだろう、と思って行ってみました。
そこは自宅を兼ねた小さなみすぼらしい医院で、医療設備らしいものは何もありませんでした。よれよれの薄汚い診察着を着た年配のお医者さんに、これまでの経過を説明しました。そしてカルテやレントゲン写真や推薦状を渡して見てもらいました。
ところが、そのお医者さんはサラッとそれらに目を通すと、こう言いました。「ああこれはね、司法試験のストレスでなったもんだよ。弁護士さんも結構ストレスが多いから時間がかかるかも知れないが、ほっときゃ治るよ。何も心配いらないから、薬なんか飲むのをやめなさい。今日から普通の食事をしなさい。何を食べてもいいからね。頭を使う人は、なるべく運動した方がいいよ。とにかく気にしないことだ。ほっときゃ治るよ」。
そして、カルテなどはみな返されて、20分位でその医院を出ました。あっけない診察にがっかりしました。しかしそのお医者さんが言ったことばには、何か確信が込められていたのです。そこで、そのお医者さんの指示に従って、普通の生活をしてみることにしました。弁護士になった初月給で家の近くにできた会員制のプールの会員になり、水泳を始めました。そうしたら、数年して潰瘍は治ってしまったのです。潰瘍が治ったばかりか、体重も増えて慢性の胃下垂も治ってしまいました。
最先端の近代医学によって、若くして危うく胃と十二指腸を失うところでしたが、町のお医者さんの確信あるひと言によって、手術も何もしないでいやされたのです。そのお医者さんは心に疑わないで信じて言ったのです。もしその医師の診断が間違っていて、何もしないで手遅れになったりしたら、医療過誤として訴えられる危険があったわけです。特に私のような弁護士の卵に対して言ったわけですから、よほど強い確信があったものと思います。そしてその医師の言ったとおりになったのです。
7.弁護士の仕事と信仰
私は今、毎日難しい法律問題、訴訟事件を抱えて取り組んでいます。お医者さんは、人の体という比較的客観的なものを対象としていますが、弁護士は人間関係、社会問題という色々な未知の要素の絡み合った事柄を対象としています。そのため、問題の解決の見通し、裁判の勝ち負けの見通しは、非常に難しいのです。それこそ、それは「神のみぞ知る」の世界です。
しかし、神を信じる弁護士として、今日のみことばにありますように、初めから問題が公正に解決されること、裁判に勝訴することを信じて、疑わないようにしています。そして問題は必ず解決する、裁判は必ず勝つと信じて、言うようにしています。そうすると不思議なことに、結果は確信をもって言いつづけてきたとおりになっています。
とうてい解決不可能な問題が解決し、とうてい勝てそうにもないような裁判に勝ってきました。万一裁判に敗れることがあっても、最終的には「勝訴しないで、敗訴した方が、かえって良かった」という結果になっています。このように、神のみことばは生きていて力があることを、毎日体験しています。
8.「ことば」は外形、中味は「信仰」
「ことば」とは一体なんでしょうか。それは人の意志を音声または文字によって表現したものです。人の信仰を音声または文字によって表現したものです。「ことば」は「人の意志(信仰)」を他の人に明確に伝える手段です。「ことば」は外側の形であり、その中味は「信仰(意志)」です。
中味である「信仰(意志)」が強ければ強いほど、それを表現した形である「ことば」も強いのです。
現に、この一冊の聖書のことばが、全世界の歴史を動かし、全世界の人々の人生を動かしているのです。聖書は神の意志(信仰)が文字のことばとして書かれている書物です。
ヨハネの福音書第1章において、イエス・キリストは「神のことば」であると書かれていますが、眼に見えない霊なる神が、イエスという人間という形に住まわれたということです。また、聖書全体がイエス・キリストについて語っている(ヨハネ5:39)ということです。神を内に宿した人間イエス・キリストが、また、イエス・キリストをことばによって書いて表現している聖書が、全人類という山々を動かしておられるのです。
聖書のことばをとおしてイエス・キリストを信じている私たちの内には、神の霊すなわち聖霊が宿っておられます。そうすると、私たちはそれぞれ「神の表現としてのことば」であるわけです。すなわち、私たちは「小さなキリスト」です。ですから、私たちは各々に与えられた世界で、その信仰に応じてその語ることばによって、山々を動かしているのです。家庭を動かし、学校を動かし、職場を動かし、社会を動かしているのです。
「山を動かす」のは外形的には人であり、その人の語ることばですが、その実質はその人の信仰(意志)であり、その人に宿っておられる神ご自身です。ですから、私たちはいつも神をほめたたえていきましょう。
万軍の主は仰せられる。これは権勢によらず能力によらず、わたしの霊によるのである。大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。(ゼカリヤ4:6〜7)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。