神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るようにと、祈っている。(エペソ1:19)
1.はじめに
私はイエス・キリストを信じて、「新しい生きがい」を発見しました。キリストを信じる前の私は、自分なりに大勢の人々の中で仲良く生きてきましたが、本質的には独りぼっちであることを知っていました。いわゆる「群衆の中の孤独」を知っていました。「最終的に頼れるのは自分しかいないのだなあ」と思っていました。しかし、同時に「自分ほど頼りにならない者はいない」ことも知っていました。
そのために、いつも3つの問題を抱えていました。それは第1に「不安」であり、第2に「むなしさ」であり、第3に「無力」です。ところが、イエス・キリストに出会ったことによって、この3つの問題から解放されてしまったのです。
今日は、第3の「無力からの解放」ということについて私の体験などから短くお話させていただきます。
2.力の源泉―フォーカスを合わせる
私たちはそれぞれ相応にいろいろな能力が与えられています。この能力が十分に発揮されているときはそれなりに充実感があって、力が湧いてきて次から次へといろいろなことができてきます。
私は一時期、風景写真の撮影に凝ったことがあります。そもそものきっかけは、友人のセミプロ写真家と旅行したことにあります。私がある場面に感動して、「おい、このアングルがいいぞ!」と言うと、友人は馬鹿にして「そんなのは、ダメ、ダメ」と言うのです。それでもしつこく私がせがむのでいやいや彼が撮ったその写真が、国展に入選してしまいました。それまで、美的感覚ゼロと信じ切っていたのですが、その入選以来、もしかしたら私にも多少はセンスがあるかも知れないと思い始めたのです。
そう言えば、いつも神の創られた美しい自然に魅かれ、感動する気持ちは人一倍あったように思います。そこで、その友人の中古カメラを譲ってもらって、仕事の出張などの旅先でシャッターを切るようになりました。そのうちにだんだんのめり込んで「こんなにすばらしく楽しい世界はない。よし、プロの写真家になって世界中を回って神の壮大な創造の神秘(栄光)を撮りまくろう。そして、聖書の御言葉を付けて写真集や絵葉書やカレンダーにしよう」と思いました。弁護士を辞めて、まず写真の専門学校でカメラ撮影技術を学ぼうと考えたりしましたが、これは諸々の事情で未だに実現していません。
写真撮影で一番重要なのは、フォーカスを合わせること(合焦)です。この合焦で写真の作品としての価値がほとんど定まると言っても良いほどです。「何に焦点を合わせるのか」と、「どのように焦点を合わせるのか」ということです。それは逆に言えば、その人が、「何に感動しているのか」と、「どのようにその感動を表現するのか」ということです。「いかにフォーカスの対象(被写体)を選ぶか」と、「いかにフォーカスをその対象に集中させるか」ということです。
本当に感動する場面を見つけて、それにフォーカスがぴったり合わされると、レンズをとおしてファインダーの中にまさに神の国が現れるのです。あまりの美しさに息を飲んでいるうちに、被写体にグングン引き込まれていきます。そこに無限の世界が見えてきます。そこにあるものすごい力に圧倒されそうになります。そんなときは、シャッターが切れなくなってしまうほどです。
ところが、プロのカメラマンでもなかなか感動する場面に出会えないのです。たまに運良く出会っても、それにぴったりとフォーカスを合わせてシャッターを切ることがなかなかできないのです。「本当に感動し心から納得できるような写真が出来上がるのは、千枚に1枚あれば良い方だ」と言われています。
3.無力の原因―フォーカスが合わない
私たちの人生もこれと同じではないでしょうか。根本的な救いと解決を求めて、あれやこれやといろいろなことに手を出してやってみるのです。でもどれもこれも「帯に短し、たすきに長し」で、「これだ!」といえるものがありません。一時的に「あっ、これだ!」と思っても、時がたてば「やっぱり、これではない」とがっかりするのです。
野球で言えば、いつも「空振り三振」です。「ファウルボール」です。たまにまぐれで「ヒット」しても「ホーム」までたどりつくことができません。ジャスト・ミートができないため、いつまでたってもホームランが打てません。人生の焦点がボケていると何をやってもだめなのです。いずれは疲れ果てて、無力になっていくのです。
私も人生の根本的な救いと解決を求めて、実にいろいろなことをやってきました。大学生のときは、授業にすぐに飽きてしまって、学友会の執行理事だ、卓球部だ、弓道部だ、世界連邦期成会だ、憲法問題研究会だ、法律クラブだ、英語クラブだ、と10を越えるクラブやサークルに所属しました。そして、部会だ、合宿だ、集会だ、デモだ、旅行だ、パーティーだと夢中になって動き回っていました。
子どもの頃から貯めさせられていた貯金を全部使い果たして、オンボロのプロペラ機に乗ってヨーロッパを回りました。帰路、プロペラ・エンジンから火が噴き出して、急遽サウジアラビアのダーラン空港に不時着して命拾いしたこともあります。
弁護士になってからは、フォーチュン誌の世界トップ百社に載るような数多くの国際的大企業や外国政府機関の法律顧問として、裁判だ、仲裁だ、法律調査だ、契約交渉だ、政府折衝だ、取締役会だ、株主総会だ、と日本と世界を飛び回って仕事をしました。
島を買収するためにインド洋のモルジブ諸島に飛んだり、人工衛星の打ち上げやスペースシャトル利用のための契約交渉でワシントンDCのNASA本部やヒューストンの宇宙センターを訪問しました。200年分の埋蔵量の石灰石の鉱業権設定手続をするため、沖縄にしばらく滞在したこともあります。外国株式を東京証券取引所に上場する仕事でアメリカに行って、上場を希望する数社かけもちの書類作成会議(ドキュメンテーション・ミーティング)に臨んだこともありました。
弁護士会でも人権擁護委員だ、公害対策委員だ、常議員だ、とやってみました。仕事の合間には、ゴルフだ、テニスだ、スキーだ、麻雀だ、飲み屋だ、ディスコだ、デートだ、と遊び歩いていたわけです。
勉強も仕事も遊びも、やればやるほど、やるべきことは増えてきます。責任も重くなってきます。また、やればやるほど、難しくなってきます。そうすると、自分の力の限界にぶつかってしまうのです。いろいろなことに手を出してやればやるほど、無力(感)に悩まされるようになります。「あれもやらなければ、これもやらなければ」「あれもやりたい、これもやりたい」と中毒患者のようにあせっても、もう力が出てこないのです。
そして、「いったいなんのために無力(感)に悩まされるほど、やっているのか」と問われると、答えられません。「あれもやった、これもやった」と思っても、「それがいったいどうしたって言うんだ?」 "So What?" と聞かれたら、何の返事もできないのです。
空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。(伝道者の書1:2〜3)
私ははじめて聖書を読んだときに、この旧約聖書の言葉が、最も自然に心にしみ込んできました。いくら経験と知識を積み上げたところで、
知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す・・・。(伝道者の書1:8)
と書かれているとおりです。どんなに一生懸命に物事に取り組んだところで、しょせんは「どんぐりの背くらべ」にすぎないではないか、「大海に一滴」を投じているにすぎないではないか、という無力感と脱力感に襲われるのです。
4.イエス・キリストとの出会い
そのような暗中模索がつづく中で、外国留学先で聖書を学ぶ機会が与えられて、数年後にイエス・キリストと出会うことができました。ようやく、私が必死に探し求めていた本当の救いと解決に出会ったのです。そして、ついに「出会うべきお方に出会った」「帰るべきところに帰った」という平安と確信が与えられました。。私の人生の最高の対象(被写体)に出会って、心のフォーカスがそれにしっかり定まったのです。
イエス・キリストに出会い、キリストとともに歩む人生が始まって以来、聖書をとおして唯一・絶対・永遠・無限なる天地万物の創造者(神)の権能の一部である、「絶大な力」を知りかつ体験するようになりました。
その力は、考えれば考えるほど、探求すれば探求するほど、圧倒されるような強い力です。その力は極大の大宇宙にも、極小の素粒子にも等しく及んでいる神の力です。宇宙のビッグバンを引き起こし、核分裂による核爆発を生じさせる力です。
そして本当にすばらしいことには、私たちはキリストを信じてキリストに結ばれることによって、神の「絶大な力」に寄り頼むことができるということです。「主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む」(詩篇28:7)と言うことができるのです。
そうすると、次のようなキリストの言葉を信じることができるようになります。
もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって「ここからあそこに移れ」と言えば、移るであろう。このようにあなたがたにできない事は、何もないであろう。(マタイ17:20)
神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海に入れと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。(マルコ11:22〜24)
そして、「なんだ、私はもうこれ以上なにもできないと思っていたが、本気で神を信じるなら、どんなことでもできるではないか」と思えるようになるのです。このようにして、私は無力(感)から解放されました。私自身は全く弱く、無力な者ですが、キリスト(の言葉)に心を集中し、集中しつづけていくと、キリスト(の言葉)から神の絶大な力が心に湧き起こってくるのを体験するからです。
5.スポーツに及ぶ神の力
重度の心臓病で医師団から再起不能を宣告され、ボクシング出場資格まで剥奪されたイベンダー・ホーリーフィールドは、
私は、私を強くして下さる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)
"I can do all things through Him (Christ) who strengthens me."(Phil.4:13)
の御言葉を信じて立ち直りました。2度にわたってマイク・タイソンを打ち破って、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンの座を守っているホーリーフィールドのその力は、信仰による神の「絶大な力」なのです。
また、25歳のときにモハメド・アリに負けてヘビー級チャンピオンのタイトルを失ったジョージ・フォアマンは、すさんだ生活の後キリストを信じて牧師になりました。フォアマンはニューヨークで大きな教会を牧会していました。ところがあるとき神の召命を受けて20年振りにリングに立って、最高年齢のヘビー級チャンピオンとして返り咲いたのです。
6.裁判に及ぶ神の力
私たちと一緒にビジネスマンに福音を伝えているKさんは、大手商社マンとして永らくアメリカに駐在していました。以前、息子さんが車の追突事故を起こして被害者から600万ドルの賠償請求の裁判を起こされました。息子さんの乗っていた車の所有者であったKさんも共同被告にされました。交通事故賠償保険は最高50万ドルしかカバーできません。
Kさん一家は絶えずこの600万ドルの裁判におびやかされてきました。夜も眠れない日が多くあったのではないかと思います。そしてついに陪審員による審理を行うため呼び出しがかかったのです。アメリカの陪審員のことですから当然に、「かわいそうなアメリカ人に損害を与えていながら、金持ちの日本人が、十分な賠償を拒否しているのはけしからん」と考えることが予想されます。
Kさんはこの問題があまりにも重すぎて誰にも話せなかったのですが、ついに私たちに打ち明けて、神の絶大な力に寄り頼んで、一緒に祈ったのです。そうしたところ、すぐに心が平安になりました。そして法外な請求をしてKさん一家を困らせてきた事故の被害者である原告ですが、彼のためにこれまで一度も祈ったことがなかったことに気がつきました。
それから、Kさんは原告をゆるし、原告に神の祝福があるようにと毎日祈りつづけていたところ2週間ほどして、Kさんの弁護士から連絡がありました。「突然原告から提案があって50万ドルで和解しました。ですから陪審裁判に来なくてよくなりました」とのことです。もちろん全額保険でカバーできます。
このように、神の絶大な力は私たちの信仰に呼応して訴訟事件にまで及ぶのです。人々の心にまで及ぶのです。
7.燃えるまでフォーカスを合わせつづける
私たちは、神の力強い活動によって働く力が、キリストを信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、もっともっと知る必要があります。この神の力は、スポーツや裁判に限らず、私たちの人生と生活のすべてに及ぶ力です。
日本におけるキリスト信者の数は極めて少数です。しかし、ギデオンやダビデやエリヤを選ばれたときのように、神は人の数などを決して頼みとしないのです。イエスさまも12人の弟子しか選びませんでした。神はむしろ、いかに少数であっても(たった1人であっても)神を100%信頼する(神にすべてを賭ける)キリスト者を用いるのです。
ぜひ皆さんも、80%や90%ではなく、いや99%でもなく、100%、全知全能の神(イエス・キリスト)を信頼しつづけてください。唯一・絶対・永遠・無限・最高・最善・最美・最強の被写体であるイエス・キリストに、あなたの心のフォーカスをぴったり合わせつづけてください。
レンズをとおして太陽の光を集めてその焦点を合わせつづけると紙が燃えてくるように、私たちの心のフォーカスをキリストにぴったり合わせつづけていくと、心が燃え上がってくるのです。キリストの愛が私たちに強く迫ってくる(2コリント5:14)からです。聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれてくる(ローマ5:5)からです。それはまさに神の絶大な力の現れです。そのようにして私たちは、「霊に燃えて、主に仕える」ことができるようになるのです。
そうすれば、私たちをとおして、神の絶大な力が発揮されます。神の絶大な力は、人々の心に、体に、家庭に、勉学に、仕事に、教会に、福音の宣教に、社会に、国家に、世界に、あらゆる場所、あらゆる分野に働きます。キリストを信じる者をとおして神の絶大な力が正しく発揮されるならば、どれほど多くの人々が救われることでしょうか。
わたしはあなたがたに、へびとさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力にうち勝つ権威をさずけた。だから、あなたがたを害する者は、なにもないであろう。(ルカ10:19)
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。(マルコ15:17〜18)
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。(エペソ6:10)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。